あかいろパレット

 ――さくらってさ、根元に人が埋まってて、その血を吸ってるからあんなにきれいな色をしてるっていうよね。。
 目の前に屹立する大木を見上げて少年は、いつだったか聞いた言葉を思い出した。もう久しく桜の花なんて見ていないが、毎年春にテレビで放送されている映像を見る限りでは、やっぱり桜はきれいな桜色をしているんだろうと、そう思う。でも記憶の中の桜色は俗に言うピンク色で、まかり間違っても血の色ではない。そう、人の血を吸ったかのような色をしているのは、桜、なんかではなく。

「――どっちにしろ、妄想も甚だしいね」

 つらつらと意味のないことを考えていると、その思考の外から見知らぬ――聞き知らぬ声がかかった。まるで思考を先読みされたかのような、あるいは彼の意識を現実にまで叩き戻すかのようなそれに、少年ははっと思考の海から帰還した。
「誰」
 振り返ったところで誰もいない。ここは視界を遮るものなんて何もない開けた場所で、そもそも平日の真昼間にこんな山の中までやって来ている人間なんてそうそういないはずだ。 まぁこんなところにいる自分も大概変わってるか、と、少年は小さく心の中で呟いた。もちろん彼は学校を休んだわけではない。一般的な学校と違い彼の通う学校は二期制のため、数日ながらも秋休みがあるのだ。それにかこつけるようにしてここまでやってきたのはいいが、しかし彼はとても、迷っていた。こんな山の中まで来て、どうしようと。そんな折にこの大木を見つけたわけなのだが。
「こっちだよ」
 今度の声は分かりやすい所から降ってきた。……そう、木の上だ。けれど見上げていたこの大木ではなく、後ろにあるものから。
「あんた誰」
 振り返りながら少年は言った。目線よりもかなり高いが、どうやら彼は気にしない方向で行くらしかった。何より声をかけたその青年の方にも、降りる気はないように見えたからだ。そう、青年、そこにいたのは紛れもなく青年だった。しかし青年と言うにはいささか顔立ちが幼く少年めいていて、その髪も平均的長さよりは随分と長い。ゴムで一つにまとめたそれは尻尾のようにも見えた。伸びた太い枝に座っているためよくは分からないが、どちらかと言うと背は高い方だろう。自分より、二つか三つは、年上。
 そうやって上から下までをじっくりと値踏みしたあとに結論付けて(基本的に彼は外見から物事を決めてかかる方だった。損をしたことはたくさんあるが、それと同じくらいに得もしている)、答えの返されなかった問いをどこかへ放り捨てて再び言う。
「なに、何の用」
 年上に向けるのにはずいぶんと無愛想な物言いだったが、これが性分なので本人は気にしていなかった。青年も大して気にはしていないようで、見ようによれば睨み上げているとも取れる少年の視線に自分のそれを合わせ、目を細めて口元だけで微笑む。嫌に癪に障るその笑い方に当然少年は眉間に皺を寄せるが、それこそ青年は気にしない。そして言った。
「や、別に? 何の用だろうって、思ってただけ」
 他に質問は? と、質問に質問で返した彼。どうやら相当に嫌なタイプの性格らしい、と人のことは言えない感想を抱きつつ、少年は眉間の皺をより深くしながら三度言う。
「何でもない。ただこの木を見上げてた。そう言うあんたはどうなんだ」
「オレ? オレもただ、こんな山奥でぼけっと木なんて見上げてる変な奴が珍しかったから、見てただけ」
 ……、イラっとした。自分のこめかみが青筋立っているだろうことを自覚しながらも、少年は質問を続ける。
「で? あんたは何なわけ? この辺の人? 近くに小屋でも?」
 不機嫌さが全体的に滲み出た声にも構わず、青年は答える。木から降りる気はないのか、そこから彼を見下ろしたままで。
「んー、まぁ、そんなところ。でもこの山に住んでるわけじゃない。ここら一帯が庭みたいな感じ」
 ふぅん、と至極どうでもよさそうな言葉が返された。返答に対した期待はしていなかったので、青年の方も全く気にしない。そもそもなんとなく始められたこの会話には何の意味もないのだから、期待だとか落胆だとか、そういった類のものとは真逆の次元にあるのだ。
 ひらり、と少年の目の前を色づいた葉が舞った。まだ全てが全て色を変えたわけではないけれど、彼が見上げ、そして青年の腰掛けている枝は鮮やかなオレンジへとその色を変えている。夕陽の色をそのまま引きこんだかのようなそれに一瞬だけ目を取られていると、高い位置から、青年が詩の一節でも紡ぐかのようなトーンで言葉を紡ぐ。意味がないながら、止めるつもりはないようだ。
「それじゃ、お前がここに来た理由は? まだ中学生か高校生くらいだろう? 学校休んでまで来たのか?」
 明らかに子供扱いするその台詞に、少年はむうと唇を尖らせた。確かに見た目は学齢だが、しかし子供扱いされて喜ぶような年齢でもない。ましてや、こんな、通常の十倍くらいの破壊力でもって他人の精神を破壊してくれるような一言を吐く得体の知れない人間にされたとなると、怖気だとか寒気を通り越して、ちょっと三途の川でも渡りたい気分になってくる。実に不愉快――とは少し違う感覚だったけれど、彼はそれ以外でこの感覚を表せるような言葉を知らなかった――だった。
「秋休みだよ。俺の高校、ここらでは珍しく二期制でね」
「へぇ、そんな高校初めて聞いた。この辺にあるの?」
「ここらって、俺言ったじゃんか」
「おっとそうだった」
 ここまでくるともういっそ芝居だろうと言いたくなるような大げさな動作で肩をすくめて見せた青年に、少年はこめかみの辺りに手をやって言う。
「あんたさ、人の話、ちゃんと聞いてる?」
「よく言われるよ」
「変な人だね」
「それもよく言われる。でもオレの周りも、大概変だと、思うんだけどね」
「例えば?」
「従姉にメロメロで骨抜きの少年シスコンドクターだとか、クソでかいリムジン持ち上げてうっかり破壊しかける怪力女だとか、人見知り過ぎて全身完全防備の着ぐるみ着てるちびっこだとか」
「……、は?」
 なんじゃそりゃ。現実離れしすぎていて少年は一瞬放心した。もう一度言おう。なんじゃそりゃ。
 百歩譲って――この場合、一体何において百歩も譲ったのか、全く定かではないのだが――最初のシスコンドクターとやらはまだまともな範疇だろう。その対象が従姉だというのも、まだ少年と呼ばれる年齢なのも、まぁ、流すとして。残り二つはどうなんだろうと少年は軽く戦慄する。
 まず怪力だからと言って、人間はリムジンを持ち上げられるものなんだろうか。ちなみにリムジンの全長は八メートル前後、総重量は二トンを優に超えている。常識的な範囲の人間、それも女はそんなものを持ち上げない。というよりむしろ、そんな機会に出くわさない。そして最後の子供。全身着ぐるみというとテーマパークにおけるキャラクターのそれしか思い浮かばない少年だったが、青年の言い草からして恐らくそれだろうとあたりをつける。どこでそんなものを手に入れたんだろうと思案する少年も、やはりどこかずれていた。
「な? オレもその中じゃまだまだまともだろう?」
「うん、周りが濃すぎると思う」
 でもあんたもあんただ、とまでは、彼は言わないでおいた。さすがにそれくらいの人間性は持ち合わせている。
 青年はひどく緩慢な動作で腕を組み、「そうだろうそうだろう」とばかり一人頷いてみせると、「やっぱりオレは常識人だ」としみじみ言った。……聞き捨てならない彼のその台詞に、少年は口を開く。少しばかりの反撃の意味も含めて。
「そういやあんた、俺に “妄想も甚だしい”なんて言ったけど。どういう意味だ?」
「なんとなくわかったんだよ、考えてること。こう、びびびっとさ」
「何で」
「知らない」
 だめだ電波すぎる。少年は心の中で挫けそうになった。見た目はまだ普通のくせに言うことがどうにもぶっ飛びすぎていて、彼には全くついていけない。
 第一、いい加減に降りてきてもいいと、彼は思う。いつまで自分は彼を見上げなければいけないんだろうと、最初はただこの木を見上げていただけなのにと背にした大木のことを思って、彼はふと言葉を紡ぐ。視線を、背後の貫禄充分な大木に向けて。
「この木さ」
「うん」
「すごい色、してる」
「そーだね」
「世界に色なんてないと思ってた」
「ふぅん」
 つまらない世界。少年は毎朝毎晩四六時中、いつだってそう思っていた。何も変わっていこうとしない、移り行くだけのこの世界は彼にとって無色のままで、それは何もないのと同じで、ひどく存在価値のないような錯覚に囚われていた。たとえクリスマスのイルミネーションだろうが教会のステンドグラスだろうが、あるいは極彩の花々だろうが、彼の世界を色づかせるようなことはない。彼の世界は常に白黒、どころか、透明だった。目に映る全てが無意味で無価値だった。
 もちろん目の前に横たわる世界をそんな風に見ていたのは彼だけで、周りの価値観と圧倒的に違う自分のそれには確かに愕然としたけれど、今では彼も自分の感覚に慣れ、「自分はきっとそんな人間なんだろう」と思うようになってきていた。
「桜の木の下に人が埋まってるって話聞くたびに俺、思ってたんだよ。血の色っていうなら桜よりも、こっちの方が“らしい”って」
「確かにね」
「他の木はまだ全然色が変わりきっていないのにこれだけが真っ赤なのは、これが特別な木だから?」
「どうだろう。この木、オレの年の何十倍も前から植わってるみたいだからよく分からない。でもこの木は一年中こんな色さ」
「すごい」
「オレもそう思う」
 真紅。赤色。紅色。朱色。その他どんな言葉でも形容できないような鮮烈な赤さで枝に付けた全ての葉を染め抜いた大木はほかのどの赤よりも鮮明なリアルさで少年の世界に屹立していた。他の木々の、まだ緑の背景の中で、それだけが彼の世界を色づける。
 初めて「これがこれこそが世界の色だ」と思えたかもしれない少年は、訥々と言う。やっぱりまた、意味のないことしか言えなかったけれど。
「さっき言った桜もさ、俺、あんなののどこが綺麗なんだって思ってるんだ。花だってそんなに綺麗なつくりしてるわけじゃないし、そもそもソメイヨシノは白っぽい花びらで桜色じゃないし。綺麗なんかじゃ、ないじゃん」
「まぁ、みんながこぞって花見に行く割には大したことないね」
「でしょ?」
「でもそういうのって、結構みんな思ってるんじゃないかな」
「そういうものかな」
「そういうものじゃない? オレだって、他の所のさくらはあんまりきれいに見えない」
 少年は首を傾げた。全てにおいて世界を肯定的に見ているような雰囲気があるこの青年が、世界の何かを否定する、そんなことを言ったものだから。
「他のところ? ならここは綺麗なのか?」
「うん、少なくともさくらっていう花の価値観が百八十度変わる」
 自分のことでもないのに自信満々に言ってみせた青年。彼が言うんだから本当にそうなんだろう、と何の根拠もなく少年は思ったけれど、今は九月の終わり、桜の花が咲く季節とは程遠い。なぜか損をしたような気分になってぽつりと呟く。見てみたいな、と。その言葉が木の上まで届いたのか、青年は子供のように足をふらふらさせて、にっこり笑って言った。
「ならまた、春においで」
「うん?」
「本当の桜色ってのを見せてやるよ。ここのさくら、きれいだから」
「へぇ、そりゃ楽しみだ」
 じゃあまた、春に。もう夕暮だからとそう笑って――少年は、青年に背を向けた。連絡先どころか名前も知らないけれど、今聞くのはもったいない気がして放っておく。どうせ春、ここに来れば会えるような気がしたから。だからその時までとっておいてやろう。