――この木、さ。すごい色、してる。世界に色なんてないと思ってた。
十五夜、と言うにはいささか以上遅かった。空のずいぶん高い所で流れる雲の隙間から見える月は、残念ながらと言うべきか、ほとんど欠けて細くなってしまっている。無数の星々の明かりも頼りなく、ひどく光の少ない夜だった。
「色のない世界、か」
昼間に出会った少年を思い出して、人を支えるなど到底できそうにない枝に腰掛ける青年は、誰に聞かせるでもなくぽつりと呟いた。静かなその場所にその声はすぐに広がり、やがて溶けて消える。
いつもよりも遥かに高い位置から見下ろしたその先に広がるのは、薄い暗闇に包まれたモノクロの世界。昼間はあんなに鮮やかに存在を主張していた赤や黄、まだ色が変わる前の緑の葉も、光なしでは何の彩りにもならない。
青年は夜が好きだった。パステルから極彩から原色から、偽物じみた色で満ち満ちたこの世界が黒で塗り潰されて落ち着くから。綺麗でも何でもないたくさんの色たちで溢れ返る世界を見ないで済むから。色の落ち着く夜が好きだった。
けれどある少年は否定した。この世界には、何の色も存在しないと。
自分と違って、何にも色を見出せなかった少年。
見た目は至ってごく普通の少年だった。髪こそ暗い茶色に染めていたものの――思わず青年は茶髪でも許される高校なのか聞いた。二期制などというそこらではあまり聞かない制度をとっているその高校は、どうやら茶髪やピアスも常識的範囲内ならば黙認しているらしかった――不良少年と言うことでもなく、むしろ青年の軸のぶれた言葉にも対応する柔軟性や思考能力を持つ常識人だった。電波じみた発言をする彼にも少年は怯むこともなく(実は心の内で引いていたのかもしれないが)。その点では、少年のようなタイプはとても珍しかった。大概の場合は相手が引き、会話が成立しないのだ。こちらが「面白い奴だな」などと好意的に思っていようが、相手は真逆の感情を抱いている、なんてことは日常茶飯事だったのだ。
しかし生憎青年に彼の心情は理解できそうになかった。何せ、もともと見ているものが違うのだから。
彼は昼間の話の端で、“世界”を自身固有の、つまり自身だけが見ている自身だけのものだと言った。自分の見ている世界に色なんて何もない、誰ともこの世界を共有できなかったと。
それこそが彼ら二人の相違点だった。少年は“世界”は自分の掌の中にあると信じ、青年は世界”の内にこそ自身が在ると思っているのだ。自分は“世界”に生かされている、自身の持つ“世界”は同時に他人も存在するものだ。青年にとっての“世界”は、生きるための舞台などではない。そもそも彼は、自身がこの“世界”の主人公だなんて、一片たりとも思っていないのだ。
もちろん、彼にも少年の言いたいことはよくわかる。何を言って何を考えたところでどうしようもなくこの“世界”は自分のものでしかないし、他人のそれも同じだ。だがしかしこれは視点の――見える“世界”と、見ている“世界”の、その違いだ。
「……せかい、なんて、そんなの、本当はどうでもいいのに」
ぽつ、と感情のままに漏らした言葉は、誰にも聞き留められないまま虚空に消えた。だんだんと空気も冷えてきたが、彼は全く帰る素振りを見せない。帰る場所がない、なんてベタな設定という訳ではない。ただ、汚い街の明かりでくすんでしまう月の色が許せないだけなのだ。
――こんなにも綺麗な月さえ、あの少年は、色がないだなんて言うのだろうか。
青年の中で、月はいつだって綺麗な存在だった。太陽のような自己主張の激しさもない、ただそこにあるだけでいいと思える色。
いつだったか仲間と夜空を見上げた時そう言うと、彼らは青年の言葉に一瞬きょとんと瞬いてから、「そうそう、お前はそういう奴だよな」「なるほど、さすがだな。やっぱりお前はオレの想像の斜め上をいってるよ」と言って爆笑した。
何が悪かったのかはよくわからないが(むしろ彼は自分に非があったかどうかすらよくわかってはいないが)、彼らも彼らで大概な変人や変態や不審人物なのだから、考えていることが分からなくて当然かもしれないと彼は今更ながら考えている。
月と言えば、彼はあまり満月が好きではなかった。それは以前満月の夜に手痛い経験をしたということも要因の一つではあるのだが、何よりも「見て、満月だよ」「綺麗だねー」という、その当たり前で極々自然な会話に交じるのがひどく嫌だったからだ。
みんなと同じ、ということが彼にひどく嫌悪を感じさせる。吐き気がした。まるで周りの汚れに似た色たちと同じだと思われているような錯覚に陥ってしまうから。
これもまた、青年の仲間たちからすれば意外なようだった。「お前、いつも月を神聖視してたりする割には変なところで意固地なんだな」「意固地っつーか……そうだな、なんっていうか、子供っぽい」などと目を丸くされたのは今でも記憶に残っている。
ともあれ、自分の信じるものすら誰かの“世界”では否定されるものだということに思い至って、彼は思いのほかひどく衝撃を受けた。まるで自分の見ている“世界”の全てがまるで否定されてしまったような、そんな気がして。
もちろんそんなことはただの被害妄想でしかないのだけれど、信じていた“世界”の崩壊が依然彼の足元を揺らしていた。世界なんてどうでもいいと、言っていたくせに。
さっそく矛盾し始めた自分の思考回路に頭を抱えながら、青年は小さくため息をつく。もうわけが分からない。この一瞬で、主観的“世界”と客観的“世界”とが見事に自分の中でひっくり返ってしまった。主観的な、つまり自分だけの持つ視点で見えるそれと、客観的な、つまりどこかの誰かが自分の視点を通さずに見ているそれは、それは、それは――、
(ああもう、自分の価値観が普通の人よりは特別ズレてるってのは分かってたけど)
結局自分の思考の行きつく場所が分からなくなって、青年は再びため息をついた。曖昧な感覚としてはなんとなく掴めているのだけれど、それを言葉だとか文字だとかに起こすにはどうしても決定的なものが足りていないのだ。思っていること言いたいことがこうして喉まで出かかっているこの感覚はひどくもどかしく、そして歯がゆい。しかし、この感情や感覚が具体的な形になることはしばらくなさそうだった。なんとなくそんな気がする。
(――ああ、そう言えば)
ここは月もきれいだと言い忘れていたな、と、月を見上げたままだった彼はぼんやりと思った。ああ勿体ない。せっかく似ているようで似ていない奴に会えたのに、せっかく何か言葉にできそうにないものを共有できそうだったのに。
(あの子も、どこかで月を見上げてたりしないかな)
彼の部屋からなら、ここと同じようには見えないだろうけれど。それも少しだけ悲しかったが、それは仕方がないと諦める(周りに一切の明かりがない場所だなんて、こんな山でない限りはほとんどあり得ない)。
――少年はここのさくらを見てなんて言うだろう。あの紅葉の大木を見た時のように、「すごい色」だと、そう言うだろうか。
青年にとって“世界”はただ煩わしいだけのものでしかなかった。次々と目の前に塗りたくられていく色はどれもきれいとは言い難いもので、けれどそのままで横たわる“世界”から目を背けることなんてできなくて。どうしようもなく、見ていられないものだった。
それでもここの景色はひどく、きれいだったから。
彼はこの木の上から眺める月が好きだった。この木の上から眺める桜の花々が好きだった。この木の上から眺める深緑の絨毯が好きだった。この木の上から眺める紅葉の大木が好きだった。この木の上から眺める真白の雪景色が好きだった。この木の上から眺める夜明けが好きだった。この木の上から眺める夕陽が好きだった。
いつ来ても変わらないきれいな景色。それは青年の“世界”の色という概念を大きく変えた。不変のものなんてないだとか、万物は全て朽ちは果てるだとか、そういった言葉が全て嘘だと思えるほどに変わらない色が、そこにはあったのだ。
――根本が異なっているだけで全ての価値観が同じあの少年は、ここの景色を見て、「綺麗だ」と、そう言うだろうか。
“世界”は常に変動している。色が動き、また別の色が置かれ、その繰り返し。青年はそれらを「汚い」と形容し、少年はそれらを「透明だ」と形容する。やはりそれはどうしようもない価値観の差だった。本物の色に出会ったからこそのその感想を抱く彼と、今まで偽物じみた色にしか出会わなかったからこそその感想を抱く彼の。
けれど少年は、初めて本物の色に出会った。
彼にとって決定的で致命的とも言えるそれは、間違いなく彼に変化を呼ぶだろう。それが良いのか悪いのかは分からないけれど。
春にまた来ると、少年は笑った。青年が綺麗だと言ったこの山の桜を見に来るために。春まではあと半年ほど。それまで彼が覚えているのか定かではなかったが、きっと春ここで再会して、またどうでもいい話をするんだろうと、青年はそう思った。その時は名前を聞こうと決めて。