死神No.35

 こんにちは、聞こえてるかな? ぼくは死神の珊瑚って言うんだけど。
 あれ、もしかして君、死神のこと知らない? あの鎌もって人殺しに行くようなおっかない奴らじゃあなくってさ。まぁ、君ら人間とかの目には見えない、非物質的な存在なのには変わりないけれど。
 ぼくら死神は確かに人が、いや生物が生を失って物になる瞬間に立ち会う。でもだからって、ぼくらが殺してるわけじゃない。ただ、ぼくらは見守るだけの存在。何かが死んでいく、その一刹那を。
 何もしないのなら、ぼくら死神は何のためにいるのかって? ぼくらは本当に何もしてないよ。君ら人間を始めとする全てと干渉しない、それがぼくらのルールだ。
 でも。
 まれに――いやそれどころか結構な確率で、そうは言ってられないようなことが起こるんだ。例外的に、ぼくら非物質的な存在が関与しなくちゃいけないようなことが。
 そうだなぁ……未練、って言ったら一番君には分かりやすいかな? 未練。怨念とかもその類かな。死んでいく人が地上に遺していく、すっごく厄介なもの。そういうモノを持った人間は、統計的に高い確率で地上に縛り付けられるんだ。それも、ぼくらにひどく害のあるモノを周囲に振り撒いてね。そんなことをされると、ぼくら死神を始めとする非物質的な――俗な言い方だけど――"こっち側"の仲間にはかなり迷惑なんだ。ぼくらと君らの間にある物質であるか否かの境を簡単に飛び越えちゃう訳だから。
 そんなワケで――"こっち"が侵食されてくことに焦ったぼくら死神は、君ら"物質側"の生き死にのサイクルを見守らせてもらうことにしました。
 どうやって? そんなの簡単、君らの未練怨念をすっぱり断ち切ってみせるんだよ。



「あー、眠い」
 月が満ちて、欠け出した、その一日目。まだ満月に近い量の光を浴びせてくれるはずの空は、どんよりと曇っている。
 ぼくはとても低い空を飛んでいた。別にそれくらいどうってことないんだけれど、ぼくら死神と人間は見た目が似てるから、低空飛行なんてすると歩いている死神仲間とぶつかるような錯覚に陥ってひどく気分が悪くなる。ぼくら死神に実体なんてないから、透けて人間とぶつかるなんてことはなんだけれど。でも所々にある街灯や高いビルなんかは思わず避けてしまう。もうこれは条件反射だ。
 人溢れる夜の繁華街をぼくは飛ぶ。早く行かなきゃいけないんだ。そうじゃないと、間に合わない。

 キキィイイィィィッと、

 不意に、進む先の十字路で目いっぱいブレーキを踏み込んだ音と――砂袋でも落としたような、鈍い音。あぁ、よかった間に合った。
「え、なになに、事故?」「可哀想……まだ学生じゃない」「だ、誰か救急車だ!」
 ざわざわと無意味に群れる人ごみをすり抜けて――いや、まさしく透り抜けて、ソコを見やる。あったのはボンネットとバンパーがもう滑稽なほどへしゃげた車と、その少し先、転がった赤い塊。
 そして、その上に漂うもう一つの影。
 心許なさげに浮き沈みするその影にぼくは思わずぺろりと下唇を舐める。
「ふぅん、今日はアタリか」
 いや、この場合はハズレって言った方が正しいのかな? まあどうでもいいけれど。とにかく状況は大体察した。もうここにいる必要はない。
「さぁ、行くよ」
 ワケが分からない、って顔して浮かんでたそいつの襟首引っ掴んで移動を開始。ぼくら死神や体を失くした人間みたいな非物質的な存在に痛みを感じる器官はないけれど、長時間傷ついた自分の体を見つめて外傷があるような錯覚を起こし、半狂乱……なんてケースもある。そんなことになられたら非っ常に厄介だった。少なくともぼくならそんな奴、その辺に放り捨てる。
 すいすいと連れまわした先は路地裏というより、空き地。寂れてひどく冷たい空気が雑草に露を落とそうとしていた中へ、ぼくは引っ掴んでいた奴を投げ捨てた。別に地面とぶつかりなんてしないから、乱暴に扱ったって心配する必要はない。でも向こうはそうは思わなかったみたいで何するんだ、とでも言いたげな視線がぼくを射抜く。まずは自己紹介かな。こんなに警戒されたままじゃ話も出来ない。
 ぼくは改めて向き合う。威嚇のように細められた目を見つめ、ぼくは恭しく――見方によったらひどく嫌みったらしく――礼をとった。死神なんて存在に反するような、真っ白なコートの裾を翻して。
「初めまして今晩和。ぼくは珊瑚。死神ナンバー35、珊瑚。君の未練を断ち切りに来ました」
 にぃ、と。口の端を吊り上げると、今回のターゲット、彼女は、細めていた目を今度はいっぱいに開いた。その奥に怯臆の色をありありとちらつかせて。
「しにがみ、って……み、れん、オレ……の?」
 セーラー服にもミニスカートにも長い髪にも似合わないような口調が女の子特有のソプラノと相俟って、なんだか笑えてくる。オレ、って。仮にも君は女子高生で、将来有望なピアニストの卵、でしょ?
「死神って言っても、あの事故はぼくが君を殺すためにしかけたものじゃないし、別にこれから痛い思いをさせるつもりはないよ。むしろ逆」
「ぎゃく?」
 混乱していて自分の置かれた状況が分かってない。チャンス。妙な勘ぐりだとかされる前に正しくて都合のいいことを頭に入れておかせられる。
「ぼくはね、君を安全に死後の世界に連れて行くためにココに来たんだ」
 さぁ、よろしくね。



「ねぇ、珊瑚」
「何」
「お腹空いた」
「錯覚だよ」
「でも空いた気がする」
「気がするだけだよ」
 そんな、超をいくつ付けても足りないような非生産的な会話を交わしてぼくらはただ寝っ転がる。多分隣で不機嫌そうな顔をしている彼女は、どういうわけか未練なんて欠片も遺してないようだった。怨みもまた然り。事故に遭ったあの日も友達とのカラオケの帰りで、日々の生活で溜まったストレスを大いに発散してきたんだとか。……うん、ぼくも何でこの子がこんな状態なのか全く分からない。ぼくだってこんなケース初めてだった。未練も怨みもなくて、どうやって魂が地上に縛り付けられるの? 何がここに、この場所に、彼女を執着させてるの?
「ねぇ」
「何、珊瑚」
「君は」
「うん」
「何がしたかった?」
「……うん?」
「君は生きていた時、何がしたかった? 何が一番、君を惹きつけた?」
 ほとんど呼吸するのと同じように出てきた言葉は、彼女から冷たくて重い沈黙を引き出した。いつもはうるさいくらいぼくに話しかけてくるくせに、彼女は黙ったままで何も言わない。
「オレは、ね」
「うん」
「生きてたかったんだ」
「……」
「生きて、居たかったんだ」
「…………うん」
 生きて居たかった。
 それはただ、生きることを継続するだけじゃあ、ない。
 生き続けて、存在し続けたかったって、こと。
 今度はぼくが黙る番だった。ぼくに叶えられっこない。死んでしまった以上、元いた場所から零れ落ちて居なくなってしまった以上、もうどうすることも出来ない。あくまでも"死ぬ"こと、それ一点だけに権利をもった存在だから。生き返る――"生き"帰るだなんて、そんな無茶苦茶なことはできないんだ。
 ねぇ。君はただ、生きて居たいと願うけれど。でもそれが、本当に君の願いなの?



「君、ピアノ、好き?」
 生前の彼女はピアニストの卵だった。そこに未練はないのだろうか。もっと上手になりたかった、あの曲が弾きたかった、そんな願いには腐るほど出会ってきた。彼女も、きっと、
「好きだけど、違う」
「?」
 どうやら違うらしい。でも、それじゃ尚更わからない。なんで君はここにいるの? なんで君は、そんなに生きて居ることにこだわるの?
「ピアノを弾くのは、ピアノが聴きたいから」
「……、うん?」
「綺麗で完成された楽曲が好き。近現代だってバロックだって好き。それを自分がピアノ一台で形作ってるって感じがするのが好き。完成されてないのは嫌い。だからオレは完璧を目指して練習してた」
 滔々と、堰き止められていた水が溢れ出るみたいなその言葉に、ぼくはただ耳を傾ける。
「周りの奴らはオレのピアノを聴いた。それで笑って上手だって言った。上手だってだけ言った。それ以外は言わなかった」
 重ねられる言葉が彼女が何を言わんとしているかを伝えていた。あぁ、彼女は。
「オレは――っ、」
「君は」
 叫ぼうとする彼女を遮って口を開く。ぼくはピアノなんて弾いたことないし、聴いたって別に何とも思ったことないけど、それでも。
「聴いてほしかったんだね」
「っ」
「技術としてじゃない、君のつくるその曲を、もっと聴いてほしかったんだね」
 上辺じゃなくてもっと奥を。
 確かにそれを周りに求めるのは無茶かもしれない。普通素人にそんな深い感想を求められないでしょ? そう言うと、「そりゃそうだ」と彼女は笑った。
「珊瑚」
「ん?」
「珊瑚」
「だから、なに――」
「オレは、さ」
 ちゃんと、生きてたかな。



 びっくり、した。
 あんなこと訊かれたのは初めてだった。今までの奴らはこれから自分がどうなるか、それだけを訊いてきたっていうのに、あの子は。
「どうしてああいう……」
 びっくりなコト言うんだろう。
 これまでを気にする必要なんてないはずだ。未練なんてないなら、尚更。
 生きていたということ。いや、生きて居たということ。それが彼女にとって一番重要らしいこと。
「まぁ何よりも、実現に向けての過程を探るべきなんだろうけど」
 それを叶えることが出来なくちゃぼくら死神の存在意義がなくなる。
 生きて居ること。それは一体何なんだろう。生きるだけじゃなくて、存在する、それにも重点があることが大切なのか。
 難しい。人間の考えてることなんてぼくにわかるわけがないんだよ。ぼくは死神だ。似てるのは見た目だけで中身までそっくりなわけじゃない。ああもう、イライラしてきた。ひどく疲れる。
「ねぇ、珊瑚」
「何」
 何度交わしたかも覚えてないこのやりとりが、また。
 ぼくはいい加減溜まりに溜まったイライラが耐えられなくて、思わず口を開く。
「ねぇ、君は本当に思い遺すことがないの?」
「え? まぁね、でも――」
「じゃあ、もういいよね? 別にここに遺り続ける必要は、ないよね?」
「それって」
「強制送還。未練も何もないなら別にいいでしょ。文句ないよね?」
 それくらい、ぼくら死神には可能だ。手がつけられないような奴には強制送還をもってあるべき場所へいってもらう、未練だとか怨念だとかが強すぎた場合によく使われる力だ。まさかこんな子に使うだなんて思ってなかったけど、もう手がないんだし、未練なんてないんだし、別に構わないだろう。
「そしたらオレ、どこへいくの?」
「さぁ? 人間が死んだ後どこへいくのかなんてこと、ぼくには興味ないよ」
 縋ると言うよりかは単純な好奇心で聞かれた言葉をあっさりと斬り捨てて、彼女に手を伸ばした。こんなことするのはかなり久々だけれど――大丈夫、間違えたりしない。
「覚悟はいいね? それじゃ、これで――」
「ねぇ珊瑚」
  ばいばい、と言おうとして、遮られた。何だい、とぼくが胡乱気に視線をやると、彼女は笑う。何だろう、何かした? いいや、掌を向けただけ。じゃあ、なんで?
「オレは楽しかったよ。今まで生きてきた時間全部。そりゃあ怒られたし失敗したし悔しかったしムカついたし悲しかったけど、それでも楽しかったって、言えるよ」
 彼女は笑って、続ける。
「オレはね、ピアノをもっと弾いてたかった。友達とだって遊び足りなかったし、今思えば先生とか親に謝りたいようなことだってある」
 でもね、と。彼女は、それでも笑う。楽しそうに。それが僕には理解できない。
 ねぇ、君はもうすぐ本当にいなくなっちゃうんだよ、もといたこの場所から。なのに、なんでそうやって笑ってられるの?
「でも、それでも思うんだ。オレ、多分誰の心の中にものこってないんだろうなー、って」
 まぁ親なんかは悲しんでるんだろうけどさ、とあくまでも笑う彼女の声は、ひどく悟ったような色をしていて。
 だからぼくは「大丈夫さ」と、からから笑った。全く、何を言ってるんだろうねこの子は。
「君みたいな個性的な子、ぼくが忘れるわけないじゃないか」
「珊、瑚」
「だから、もう本当に君の想い遺すようなことなんてないんだよ」
 ぼくは君を忘れない。そう言った途端、ほろほろと、色のついたセロファンが解けていくような儚さで、彼女の足下が淡く空に溶け始める。
 ああ、もう始まった。始まってしまった。満たされた魂がいるべき場所へ還る、それが。
「珊瑚」
「何」
「オレ、さ」
「うん」
「もうちょっと」
 珊瑚と話してたかったよ。
 なんて言って、「あはは」って楽しげに笑うもんだから、ぼくも釣られて一緒に笑って。ああもう本当に君は、自分が今消えかかってるって、本当に自覚してるの?
「それじゃあばいばい」
 最後の言葉。ぼくはいつものように、言った。今までもこうやって送ってきたし、これからもきっとそう。でも、彼女は一体、なんて言うだろう。
「ばいばい、珊瑚」
 彼女は、最後までずっと笑ったままで。ひらりと手を振った後に、彼女はふと、思い出したように口を開く。
「ああ、ねぇ、珊瑚」
「何」
 数えるのも飽きたこの会話も、これで終わり。彼女は一体、ぼくに、何を遺していくの? ねぇ、君はぼくに、何て言って消えてくの?
「オレ、珊瑚に――」
 彼女は、最後までずっと笑ったままで。
「――ピアノ、聴いてほしかった、なぁ」
 あ、やべ、心遺りってこれのことじゃん? だなんて、ひどくひどく楽しそうに笑ったままで。
 彼女は消えていった。
「――――……」
 何も残らなかった。彼女がいた跡には、何も。そこにはただ冷え込み続ける空気があるだけで。見下ろした家々は窓もカーテンも全て閉め切っていて、なんだかぼくには居場所がないみたいに思えた。
 結局ぼくは何かしてあげられたかな。ぼくは彼女の望みを叶えてあげられたかな。死神として、ぼく個人として。
 いつも誰かがいく度感じてた虚しさと切なさがやっぱり今日もきゅっと胸を締め付けて、ぼくはさっきまで彼女のいた場所から目を逸らした。そこにぼくの名前を呼んでくれる彼女が、いるような気がしてしまうから。
 空を見上げる。もう雲は澱んではいない。月と、星とが、揃って輝いていた。
「ああ、今夜も月が綺麗だ」
 そのままぼくは身を翻す。死神にはまるで似合わないコートが、風にひらりとはためいた。