ぱらり、と手帳を開いた。乱雑だったり丁寧だったり丸かったり荒々しかったりする様々な筆跡で綴られた文字を淡々と追って、彼女は今日の日付にあたる数字で目を留める。男の文字なのか、その欄を埋める文字はひどく上下に踊っていた。
箸方稜(はしかたりょう)。21歳。男。大学生。某県、某山中。
ふむ、とその並べたてられた特徴を頭の中に入れると、その手帳を白いコートの胸ポケットにおざなりに突っ込んだ。
遠く離れた地面では、まばらな民家が放つ光がぽつぽつと暗闇に浮いている。彼女が過去に捨てた、日常の象徴でもあった。
彼女は人間、動物、生物と呼ばれるものではない。非物質的な、触れようとすれば通り抜けてしまう存在である。大抵の人間はは幽霊を思い浮かべるが、彼女は死神である。。だからこうして物理法則を無視して飛び続けていられるし、肩口で切りそろえた髪も、引っかけただけでボタンも止めていない真っ白のコートの裾も一切なびいていない。彼女の周りだけが、因果から完全に断ち切られていた。
目当ての山まで到達、一度覚えた情報と照らし合わせてから彼女は湿った土の上に足をつけた。コートに合わせた白いブーツが僅かに汚れるが、全く気にする気配はない。ぼふぼふと腐葉土を踏みならし、所定の地点へとたどり着いた彼女が見たものは、
「っあ、れ……?」
周りのものと変わらない木に、寄り掛かるように座りこんだ、白骨。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ――彼女は呼吸が止まった、気がした。もちろん彼女に呼吸なんて必要がないし、驚いてなんて、いない。しかし、場所が合っているということは、対象は彼で間違いはないのだろう。もう死んでいるようだけれど。
彼女の仕事は、死神として、地上でさまよう魂を無事に非物質側の世界へと送り届けること。
彼女ら死神は誰も何も殺さない。物質的世界に干渉しない、それが非物質的世界に属するものたちのルールで、今まで物質的世界はそうしてうまく回っていたからだ。しかし人間の持つ未練や怨念の類は人間が抱えるにはあまりにも重すぎて、その摂理を踏みつぶして魂を地上に縛りつける。それを断ち切って魂を解放してやるのが死神の役目なのだ。
よって、今日も今日とて彼女は魂を「こちら側」に送還するためにここにやってきたのだが――よりによって、もうとっくに死んだ体を見つけてしまった。
人間が白骨化するまでに要する時間を彼女は知らないが、それでもある程度の時間がかかるに違いない。つまりは地上に留まったままでいる魂も自分の状況を知っているわけで、なおかつそれだけの時間が経っても未だ未練が残っているということだ。これは、非常に厄介である。
「っと、まあ、何よりもまずは探さないと、ね」
問題のこの身体の持ち主を、とごちたところで、
「何?」
超至近距離で、声がした。
「っ!?」
思わず彼女は振り返るとともに振るった左腕で声の主を突き飛ばし、数歩分飛び退った。ないはずの心臓が高鳴っている気がする。
男だった。柔らかい色合いの茶髪、縁の太い黒の眼鏡、モノトーンでまとめられたラフな服装、そして、後ろが透けて見える体――、
「あなたね?」
「だから、何?」
「この骨はあなたのでしょ?」
「まあ、そういうことになるのかな」
ふむ、と。彼女は顎に手をやり、不分明に頷いた。そのまま観察を続ける。肌の色は透けていてよくわからないが、それほど日焼けした様子はない。背は平均的、眼鏡越しに見える目は何の意思もなさそうで、そこらの雑踏に放りこんでしまえば一瞬で見失ってしまうだろう、平凡を絵に描いたような男だった。彼に、一体何の未練が、恨みがあるというのだろう。
彼女は探り出すように彼の顔を覗き込んで言った。
「じゃあ――はじめまして。私は死神No.310、佐藤よ。よろしくね」
それが彼と彼女の、ファーストコンタクトだった。
稜は不思議な男だった。話を聞くに、彼は山で遭難し、そのまま死んでしまったらしい。だからといってこれといった欲望はなく、同時に死ぬ間際まで憎み続けたものごともないようだった。物質的世界に留まり続ける意味などないのに、それでも彼は、ここにいる。
(そう言えば)
聞いたことがある、と佐藤は思い出した。先輩にあたる三十五番、投げやりで面倒くさがりのくせにほっとけない性格の彼は、以前、何の未練もない少女に出会ったという。それがたった一言で地上からの呪縛から解き放たれたと聞いたときは鼻で笑ったが――今、ひどくそれを後悔している。その類の未練だろうことが推定できるので、それをいかに聞き出したのか、そしてどんなことを言ったのか――今ここに呼び出して問い詰めたい気分だ。
「ねえ稜、あなた、誰か好きな人はいなかったの? 何か好きなものはなかったの? 何かしたいことはなかったの?」
「何でそんなこと聞くんだい。それが俺を成仏させるのに必要なこと?」
「そんなところかな。人となりを知るのも大事だし」
「ふぅん」
彼はどうでもよさそうに呟く。死んだのは今からだいたい――あくまでも彼の体感でしかないが――1年近く前、もう未練だとかそういうことにはこだわっていないらしかった。
しかし佐藤は諦めない。構わず問いを続ける。
「で? どうなの?」
「好きな人、は、いた気がする」
「今はどうしてるの?? まだ好きなの?」
「もう忘れた。どうして好きになったのかも」
「……、趣味は?」
「天体観測」
「星?」
「そう」
星、というものが人間の心を動かすのを、佐藤は知っていた。星座を元にした伝説も数多くあるし、現代では星座占いなるものが現代人を一喜一憂させている。学校の部活に天文部というものもあったか、と彼女は過去の記憶を振り返る。もちろん、死神としての記憶だった。
「星にね、なりたいんだ」
彼は言う。今は真昼で星などひとつたりとも見えていないというのに、その奥にあるものを覗くような輝きを秘めた目で空を見上げながら。
「全く、現実味のない願いだって思うけどね。それでも、最後に、最期に願ったのは、彼女の願いを叶えることだったから」
「彼女?」
「好きだった子。付き合ってた子。その子が好きだったんだ、星」
「へえ」
人間は死んだら何処に行くのだろう。彼はその最後が星だと信じている類らしい。しかし佐藤も答えを知らない。送り届けられた魂はそのまま「転送装置」なる漏斗の中に突っ込んで終わりなのだ。集められた先に何があるのか、転生するのか焼却処分されるのかは甚だ謎で、詳しいことは上司に聞いてみなければわからない。こんなくだらない問いは、聞いたところで黙殺されてしまうだろうけれど。
「でも死神さんにはどうしようもないよね。俺のこと殺しに来たのにさ」
「失礼なこと言わないでくれる? 私は別にあなたのことを殺しに来たわけじゃないの。ただ迎えに来て送るだけ。それにだいたい、あなた最初から死んでたじゃない」
「あー、そうだね。俺、とっくに死んでるっけ」
第一私は佐藤よ、と名乗り直して、彼女は彼の隣に座った。
稜はいつもこうして山の適当な場所に座り込んで空を見上げている。星の見える夜はもちろん、日が照る昼間も、星が鮮烈な白に飲み込まれる瞬間も、黒く塗りつぶされた空に微かな瞬きが生まれる瞬間も。
現に今も視線は上向き、佐藤になど視界の端に追いやられている。ともあれ会話から未練を探し出しそれを叶えなければならないのだから、彼女はこの圧倒的に蚊帳の外にいる状況に眉をひそめた。目を合わせなければ相手の真意など窺えないし(それでなくとも彼はのらりくらりと核心に触れない喋り方をする。星になりたい、だなんて滑稽なことが最期の願いなわけがない)、何となくどうでもいい存在だと思われているような気がする。
どうやら稜は死神やら未練やら諸々の話をあまり信用していないらしかった。問い質しても大して実のない返事しかしないし、自分が既に死んでいることすら忘れている節がある。自身の土に還ろうとする身体を見ては時々自覚もするらしいが、どうにも彼からは自分という存在の危うさへの不安やこれから先に辿るだろう確実な消滅への恐怖などといったものが欠片も感じられなかった。ここまでどっしりと構えられていると、逆に佐藤も強行手段に出にくくなる。
そう、強行手段――魂の強制送還だ。
彼女は幸いにして、今までそれを行使したことはなかった。誰だって使いたくはないだろう、先輩たちに聞く限り、それはひどい苦痛を伴うらしい。否、非物質は苦痛など感じないが、果たされなかった想いがそう錯覚させるらしいのだ。
「ねえ、あなた」
もしかして、と彼女は問いかける。その年で、まさかそんなことはないだろうが。
「うん?」
「星ってどんなものか知っているの?」
「知ってるよ。死神さんは?」
「知ってるわよ。これでも理科の成績は――」
「死神の世界にも理科があるの?」
「ま、まあね」
しまった、うっかり墓穴だ。佐藤はうろたえながらも言葉を続ける。そこに関して追及されたくないのも確かだが、今はそんなことに構っている余裕はない。聞き続けることが重要なのである。
「なら、死んだところで星になれないことくらい解ってるわよね?」
「ちゃんと知ってるよ。でも、どこに行くのかなって、気になったりしないの?」
「そりゃあ、するけど」
どこに行くんだろう。自分に連れられた彼らは、どこに行くんだろう。気にならなかったわけではない。今まで思考から排除してきただけで。もし転生などされずにそのまま消滅処分されていたならどうしよう、人間たちの想像する地獄とやらに連れていたとしたらどうしよう、苦しんでいたらどうしよう、そう考えなかったわけではない。ただ、考えていることが辛かっただけで。
――稜は、どうしたいんだろう。
彼女が彼と出会って、彼が彼女と出会って、ぴったり十日が経った。しかし彼はずっと空を見上げたままで一向に未練を晴らそうとはしないし、彼女もまた、そのただ流れるだけの時間にも慣れてきていた。
稜は夜になると決まって星を見上げ、まぶしそうに額に手をやった。まるで太陽よりも輝いていると言うように。
「死神さん死神さん、俺はどうやったら成仏できるのかな」
ふと、一番星が輝きだしたころに彼は言った。いつも通りのふにゃふにゃした笑顔を浮かべた彼はただ、視線を一番星一点に向けている。それも、いつも通り。
だが何となく彼の声音から感じる違和が、ぞわぞわと佐藤の背中を這いあがる。
「未練を断ち切ればいいのよ。あなたの未練は何なの?」
「……知らないよ」
「うん?」
「知らないよ。ずっと彼女の願いだけが俺の願いだと思ってたけど、でもさ、叶いっこない願いなら、そんなの持ってる意味なんてないだろ? 願い続ける意味なんてないだろ?」
滔々と堤防を決壊させたかのように溢れ続ける稜の言葉に、佐藤は言葉を挟めない。彼は続ける。星を見上げていた目は、もう苦しそうに閉じられていた。
「最初からわかってた、俺の願いなんてなかった、ただこの場所に縋りついていたかっただけで、ただ彼女を忘れたくなかっただけで! なあ、何で俺こんな風になってるのかな、何で俺何も望めないのかな、死神さん、死神さん、俺、多分このまま死にたくなかったんだ、だって何もしてないのに、何もしてあげられてないのに!」
ああ、と。佐藤は泣き出しそうになった稜を隣に思った。彼はもう、この場所に留まり続けることに疲労している。代わり映えのない一日を一体何度やり過ごしたのだろう。
無為に時間を消費する度に摩耗した彼の精神は、佐藤と出会ったことで確実に変容していた。
恐らく稜は死んでから誰とも会話をしていないはずだった。こんな山奥に誰も入ってくるわけもないし、第一今の彼を目視できるのは、同じ魂だけの存在だけである。変化のない孤独な世界で――彼は何を思ったのだろう、変わり果てていく自身の体を見つめながら。
「何かしたかったの? してあげたかったの?」
「彼女と星を見たかった。一緒に、この場所で。だから、二人で見に行く前に俺一人で来たんだ、来週楽しみだなって思いながら」
「そう。その時に――」
あなたは死んだのね、と。佐藤は言葉を飲み込む。今は余計なことを言うべきではなかった。そのまま傾聴する。
「俺は――ただ彼女と星が見たかっただけなんだ」
それが稜の望みだった。ならば佐藤がやるべきことは一つ。
「稜」
びくっと肩を震わせた稜は、ゆっくりと、驚愕に目を見開いて――隣に座った彼女を、見た。
彼女は佐藤ではなかった。肩までしかなかった髪は背中まで伸ばされ、薄い唇には真っ赤な口紅が塗られ、羽織っているのは白いコートではなく紺のダッフルコート……彼女は、佐藤ではなかった。
「里菜……?」
開きっぱなしの稜の口から零れたのは、かつての恋人の名前。望んで望んで、望んでいた彼女の名前。
「もう、何呆けた顔してるの? もう私のこと忘れちゃった?」
佐藤は死神だ。望まれた物事を叶えるために――誰かの別人の姿をとることくらい、可能なのである。里奈とやらの口調なんて知らないが、姿や声は、稜の強い願いからすくいあげた記憶から作り上げている。彼の願いは、星を見ること。二人で、この場所で。
彼の望む姿と声で、佐藤は言う。
「ほら、もう他の星も出てきたよ。綺麗だね、稜」
稜は、見開いたままだった目を細めて……空に浮かぶ欠けた月と、その周りを漂う星を見て、言った。
「……そうだね、里奈」
言った途端、彼の淡い体が、色セロファンが剥がれ落ちるかのように溶け始めた。ふわふわと、彼の体を構成していたものが山の湿った夜の空気に散っていく。それは蛍にも似た、幻想的な光だった。
「これ、は……?」
何が起こっているのか解らない彼は、佐藤に困惑した表情を向けた。無理はない、いきなり隣に座っていたはずの佐藤が恋人の姿になっていたと思ったら、今度は自分の体が消えかけているのだから。
佐藤は自分の姿に戻り――稜の体の残滓、微かに色のついたその光を愛おしそうに見つめた。見ているその前で、光ははらはらと溶けて消えていく。
「あなたは空に行くのよ」
「空に?」
彼は首を傾げて、空を見上げた。もうすでに腰から下が消えている。
「そう、なりたかった星になれるのかは解らないけど、少なくともここよりは星に近くていい場所よ」
俺、成仏できるんだね、と、彼は小さく笑った。きらきらとはらはらと散らばる光は彼が一心に見つめていた星よりも美しく、そして儚げだった。
もう最後、と佐藤は頭だけになった稜に向けて手を伸ばす。最後は、ちゃんと自分の手で連れて行きたかった。この現実の世界への執着が剥がれ落ちた後、残った魂は彼女ら死神が責任をもって彼女らの世界、非物質の世界まで連れて行くのだ。
「それじゃあね。まあ、途中で事故らないようにちゃんと連れてくから、安心なさい」
すると稜は、もうほとんど消えかけた口端を釣り上げて笑って見せる。
「よろしく頼むよ、美都さん」
「美都?」
「そう。死神さんは310番なんだろ? 佐藤なんて味気ない名前より、美都の方がよっぽどいいよ」
「ちょ――」
「それじゃ、ばいばい、美都さん」
言いたいだけ言っておいて、彼は体を失った。今はもうもの言わぬ魂だけがそこに浮かんでいる。僅かに黄色みがかった、あたたかい色をした光だった。
風一つ吹かない静かな山奥に残された彼女は――まるで遺言のように残された彼の言葉をかみしめて、彼の魂を手繰り寄せた。傷つけないように優しく包んで、ふっと息を吹きかける。
まるでろうそくの火が消えるように、光が消えた。
>忍者ツールのサイトマスターのコミュ、忍題βでのお題「星」でした。この後、310番は改名したとか、してないとか。なんか展開が35番と被ってて超鬱です。じ、時間ぎりぎりで申し訳ありませんでした……!