「……潤いがない」
まだ高校生活を半分しか謳歌していないような十代のお前が何を言うか、と、もうそばにはいない、無駄に顔と頭だけはいい天上天下唯我独尊な友人に殴られそうなセリフを堂々と吐いてみた彼は、今日も今日とて心地いい日光を惜しげもなく浴びせてくれる太陽を視界から外した。寝っ転がった体勢から腹筋だけを使って起き上がり、ぶんぶんと頭を振って髪についた砂を落として溜息をつく。
――潤いがない。
それが彼の最近の口癖だった。別段退屈しているわけじゃないし、休日遊びに出かける仲間がいないわけでも、ない。現状に満足こそしてはいないけれど、不満なわけじゃなかった。それでも――口寂しいと、零れ落ちてくる。
「あーあ、次化学じゃん。無駄に遅刻にうるさいんだよなー、面と向かって生徒叱れないくせに」
最近妙に調子づいてるよな、センセイたち、と明らかに小馬鹿にしたような口調で言うと、彼は立ちあがった。硬いコンクリートの上に寝そべっていたせいか体の節々がひどく軋んだが、気にしない。
「購買行こう」
もう予鈴が鳴る寸前だったが、彼はまだ昼食を終えていなかった。少なくとも空腹を訴える腹の虫のためにも、なにか食べ物を与えないといけないのだ。
化学のセンセイ嫌いだし別にいっか、というとてもあっさりした理由で五限目の授業を欠席する彼のサボタージュ精神はもういっそ称賛に値するだろう。とはいっても欠課程度で進級が危ぶまれるほどの点数を取っているつもりはないので、彼が教師から極端に嫌われることはないのだが。
あれ、と。
階段を下りて職員室の前を通った時――彼は、ぴたりと立ち止まった。何か、覚えのある、匂い、のようなものを感じたからだ。
失礼します、の一言もなく無遠慮に職員室の扉を開く。
「あ」「あ」
彼と目が合った少年とが上げた間抜けな声が、見事に二重奏を作り上げた。
「転校生の松原沖くんだ」
「はい、どーもこんにちは。沖って書くくせに「とおる」って読むんで覚えといてね」
転校生。しかも、無駄に顔がいい。それだけで、クラスの話題をかっさらった彼――沖は、ただ一点、じい、と、とある少年の顔だけを見つめ続ける。五限目の授業を急遽取り潰して(どうやら引っ越しの片付けが終わらなかったらしく、この時間の登校になったそうだ)行われた転校生紹介にクラスがざわつく中で、少年――結局パンを買うことが出来なかった彼は、沖に見つめられてただ狼狽えていた。
(な、何だってんだよ一体)
彼らは親友だった。例え当人たちが断固拒否してそれを認めまいが、周りから見れば立派に親友だった。ヒステリックで指導力のない教師を子供らしからぬ嘲笑で一蹴し、親や地域の大人の注意も聞かずに明け方まで煌びやかなネオンに彩られた街を徘徊し、級友や先輩後輩を巻き込んで文化祭を暗黒文化祭に仕立て上げ、その他何度も「問題行動」をとっていた彼らは、周りから見れば立派に親友だった。それが、沖の転校をもって終わったのが――五年程前。それ以来二人は一切の連絡もとらず、平和に、周りに特異の目で見られない程度には普通に過ごしていた。が。
「じゃあ松原、あの席に座れ」
「はい」
当然漫画ならば隣の席、というのが相場なのだろうが、そんなことはない。ごく順当にあいていた窓際の一番後ろ、俗に言う「特等席」に席が決まった沖は、向けられるさまざまな種類の視線には全く動じず、一段高くなっている教壇から降りると、教師の指示を無視してある席へ向かう。ずっと視線の中に捉え続けていた、少年の許に。
「な、んだよ……」
狼狽、というよりはもうむしろ混乱に近い。今彼の目の前にいるのは確かに悪友と呼ぶべき、あるいは宿敵とも呼ぶべき沖だ。だが彼はもう二度と戻ってこないと宣言して転校していったはずだった。もう二度と会わないと。
「久しぶり。寂しかったろ、綾」
綾――リン。沖と同じく一度ではまず正しく読まれないその名前は彼の持つコンプレックスの一つだった。ただでさえこれは、女に用いられる事の多い名前なのだ。だからか周りもそれには一切触れなかったのだが、それを、堂々と呼んだということは。
「寂しくなんかなかったよ沖、俺はむしろ平和でよかったぜ?」
目の前にいるこの沖という少年は、間違いなく、自分の悪友だということ。ただの同姓同名でドッペルゲンガーな他人の空似だという可能性が完全にぶち壊されたのだ、もう認めざるを得ない。諦めついで、これ見よがしに溜息を一つつく。
「っつか、何でここにいんの。お前もう俺には二度と会わないんじゃなかったっけ」
「いやいや、いやいやいやいや、優しい優しいこの僕は、きっと寂しがって泣いてるお前のためにくそ忙しい中わざわざ戻ってきてやったんだ。感謝すらされど、そんなに酷いことを言われる覚えはないんだけど?」
「一体お前のどこが優しいんだよ。お前のその無駄に厭味な作り笑いが俺の視界を掠めるだけでうっかり殺意が湧いてくる」
「そりゃー良かった、なら僕のこの顔を見ないように、お前の面の皮を引っぺがして外界認識器官を奪い取ってやるよ」
時間にしてほんの数十秒、それだけで教室の体感温度が目に見えて二度ほど下がり、それとは逆に二人の少年の間に熱く火花が散る――ような、幻覚が教室にいた全員に襲いかかった。当然、渦中の二人を除いて。
所詮それは幻覚でしかなかったが、当人たちからすれば幻覚でも何でもなかった。視線にもし物理的な力があるのならば相手を圧死させんという力を持っていただろう凄まじく凶悪な視線を互いに向け、ひたすらに舌戦を繰り広げる。
「そうそう、その顔だよ綾。お前のその心の底から嫌そうな顔が懐かしくなって恋しくなって戻ってきたんだ」
「うわ、俺今なら投身自殺出来る、自分で自分の首絞めるのだって出来そうだ」
「なら僕が引導を渡してやろう。親友として」
「ちょっと、俺の人間性疑われるような発言やめてくれるかなぁ! 俺とお前が親友? ふざけんなよ、何だってお前みたいな人格破綻者と仲良しこよしな関係にならなきゃいけないんだ!」
初めこそまだまともだった会話が、既に跡形もなく崩れていた。全てが笑顔のまま終わったそれは、教室にいた全員に北極を疑似体験させる。仮にも高校二年生の交わすべき会話ではない。
「た、頼むから席に着いてくれないか」
がくがくと震えながら教師がそう言うと、「はい」とさっきとは打って変わった模範生的解答で応える沖。彼が一歩目を踏み出したところで綾がさっと足を出したが、彼は華麗に避けて見せた。躓かない。苛立ち紛れの舌打ちが静かな教室に盛大に響いたが、誰もが一斉に聞かなかったことにする。皆、保身に走ったのだ。
転校生は凄い奴らしい、などとひどく的を射ているようないないような噂が二年の全クラスに伝わったのは、その教室の空気を完全凍結させた舌戦の繰り広げられた授業が終わった、その次の休み時間だった。またもや件の二人が火花を散らしそうだったのに気付き、クラスにいたほとんど全員が別のクラスへと避難した結果だ。
この高校に二人の以前の様子を知る者が皆無だったため――二人の地元とは程遠い場所にある。それまでの所業を思えば当然である――生徒たちに抗体がないのもあったのだろうが。
(まーいーや。別に噂なんて卒業すりゃ自然消滅するだろ)
人の噂もなんとやらの精神のつもりだろうが、卒業するまでを範囲にしているあたり噂が囁かれ続けるだけのことをしでかすつもりはあるらしい。少なくとも会うたび勃発するあの口喧嘩はいわば挨拶みたいなものだし、昔はこれが普通だったのでこのスタンスは変えないと心に決めてある。
ということで、今回はこちらから「挨拶」をすることにした。
「よう、二人っきりとか超気まずくね? この教室を占める人口の割合がフィフティー・フィフティーで俺とお前だけとか本当願い下げなんだけど」
「腹立たしいけれど僕もそれに同意だね。何でお前とこのだだっ広い教室で同じ空気吸わなきゃいけないのか理解に苦しむよ。このやり取り聞きたくないんなら僕やこいつに話しかけるなり転校生の僕に校内を案内するなりして引き離せばいいだけなのに」
「……ま、馬鹿なんだろ」
「……そうなんだろうな」
高圧的かつ敵意に満ち満ちた視線を互いに交わし合って、一息。その、一息で――空気が変わった。極限まで張りつめさせていたものが急にたわんだような、呼吸がしやすいものに変わったのだ。
当然教室から逃げ出したクラスメイトたちからすればこの変化はほとんど詐欺だろうが、彼らはまるで気にせず、先ほどまでと同じ見ている方が頬を引きつらせそうなほどの清々しい笑顔で会話を続ける。
「……で?」
「何」
「結局本当に何しにここに来たの。言っちゃ悪いけどこんな半端な進学率の高校、お前が通うようなとこじゃあねーぞ」
二度目の――転校生紹介時のエンカウントでは見事にはぐらかされてしまったため(そして彼全くに変わっていない様子に思わずいつものように返してしまったため)ぐだぐだになってしまったが、やはりここは聞いておかなくてはならない。曲がりなりにも顔と成績だけは常にトップだった沖が、なぜ自分と同じ高校に在籍することになったのか。
「成績の面で言えばお前もそうだろう。まぁ、その様子だといくらか加減してるみたいだね」
「そりゃなー。こんなやる気なしの俺がここよか上のレベルの学校行ったって、素行の悪さとかで追い出されるの目に見えてるし」
からからと笑って紡がれた言葉にひどく説得力があったため、沖は肯定も否定もせずに黙秘する。その光景が目に浮かぶのだから仕方ない。自分と交わったせいで拍車がかかったのは認めるが、こいつは天然で「こういう奴」なのだ。素材が良すぎて自分でも手綱が握れないというのが沖の正直な感想だった。操れないというか、掴めない。
ふむ、と思案するように頷いた沖は、小さく口を開く。
「潤いが、ない」
びくん、と目に見えて綾の肩が跳ねた。些か以上に大きすぎるその悪友のリアクションに、沖は確信を得たとばかりにニヤリと意地悪く笑って見せる。
「最近のお前の口癖なんだってね」
知られた、と珍しく腹の中の心情と顔に出ている表情を一致させた綾は、見事なまでに漏れていた弱みに内心で盛大に溜息をついた。今の自分の精神状態で、どこまでそれを隠せているかは全く定かではないが。
周りに知られているだろうことはわかっていた。一日一回、下手をすれば一時間に一回呟いていることもあったし(その度に周りにパックジュースを奢られた。色々と勘違いされていたが訂正はしなかった。申し訳ない気持よりもジュース代が浮くことに天秤が傾いたのだ)、わざわざ隠れて言うこともしなかった。聞かれて困るものでもなかったのだ。まさか転校生の彼がこの短時間で知っているなど思いもしなかったが。
潤い。彼がふと――もう習慣化した今ですらそれを呟く時の基準はよくわからないのだが――した時に漏らすそれは、身体的なものではない。恐らく精神的なものだ。彼自身それが何なのかは解っていないが、きっと何か自分の精神の奥の方までしっかり根をのばしていた何かなんだろうと、彼ははっきりしない曖昧な位置づけの中でもそう認識している。
そうでなければこの「やる気」、「努力」、「気合い」、「根性」などという熱血的で青春じみたことからは無縁で疎遠な自分がこうも執着し続ける――もちろんこれは執着と言うには小さすぎる衝動だが、それでもこんな感情に囚われることすらなかったことから考えれば十分「執着」に値するだろう――ということはあり得ないのだ。それくらい綾自身が十分以上に理解している。今までの経験上、何かに執着することなどほとんどどころか皆無にも近かった。
「それがどーしたってんだ。別に関係ないじゃんか」
お前には、という意味ではない。今この状況に、という意味である。あえて言葉を添えなかったのは、そこまで言わなくとも分かってくれるという甘えにも近い信頼からだった。少なくとも関わりを一方的に断絶出来るような仲では、ないからだ。それくらい二人ともが自覚している。
むぅ、と唇を尖らせての抗議にくつくつと至極楽しそうな笑みを乗せた沖は、丁寧に締められたネクタイの結び目を緩く解きながら小首を傾げた。それに合わせ優等生だと主張するような漆黒の髪が首もとで揺れる。
「いやいや、僕としては張り合いがなくってつまらないだけだよ、お前がそんなんじゃ」
「?」
「お前に嫌がらせしに――お前に会いに来たってのは本音だし」
「今本音の中の本音が聞こえた気がしたんだがそれは気のせいか」
「信じるか信じないかはあなた次第です」
「ネタが古い」
「ああそうかい」
思わずぽろりと零れ出てしまった本音をもう今では全く見かけなくなった芸人風の台詞で誤魔化してみた沖は、即座に横から飛んできた突っ込みに肩をすくめた。
流されやすく自分から動こうとしないわりに、綾はこういうことにだけは反応が早い。昔からそうだった。
そうやって観察されていることも知らず、「やっぱりはぐらかされてる気がする」と不機嫌そうに眉間に皺を寄せて口の中で呟く綾。気に入らないことがある度に俯き視線を左にやるところは五年前と全く変わっていない。ふと重なった五年前と同じ彼のその仕草に懐かしさに近いものを感じて、沖は今度こそ――今度こそ、笑う。猫のように意地悪く、
「こりゃあ水分補給しかないね」
「は?」
にやり、と。
意味がわからない、とばかりに顔を上げた綾の眼前で、彼は更に言葉を続けた。今度は何の邪気もない、恐らく今までもこれからも滅多に見られないだろう類の笑顔に変えて右手を差し出す。その笑顔は貴重すぎて逆に怖いという部類に入るだろう、太陽にすら勝るような輝かんばかりのものだった。
「この五年で弛んだお前の精神を、僕が直々に叩き直してやるんだよ。感謝してよね」
どくん、と、その言葉を聞いた綾は自分の心臓が盛大に跳ねた錯覚に陥った。心の底から何か熱いものが湧きあがってくるような感覚がぞくぞくと背筋を這い上がる。水分補給? 何だそりゃ。人格破綻を絵に描いたような沖が、この俺に? そうやって考えていると、笑えてきた。
「は……ははっ」
可笑しいというよりは下らない、つまらないというよりは愉快。それは自分でもどういった種類のものか判らない不分明で複雑な感情だった。
彼は底から湧き上がって来るそれを抑えもせずに哄笑する。
「は、は、ははっ、はははははははは!」
そーかそーかそーゆーことか、なるほどわかった。彼は一人納得すると、目の前にある沖の手を叩いてみせた。乾いた音が、いっそ小気味よく教室に響く。
不思議と清々しかった。不安も何も感じない。他ならぬ悪友だ、これは多分きっと、彼なりの優しさと挑戦状。
ならばと。綾は鮮烈な笑みを浮かべる。彼がくれただけの何かと同じものでもって、自分は彼に応えてやろうじゃないか。差し出された手に迷いはない。
挑戦状なら望むところだ。
「応、なら俺も全力で受けて立ってやるぜ。お前の方こそ覚悟しろよ」