ぐはぁ、と、少年は突っ伏して唸った。授業中ではないため教師は窘めることはしないし(尤も今この教室に教師はまるでいないのだけれど)、わざわざそんな彼に構おうとするクラスメートもいない。始業を知らせるチャイムが鳴ってもただ彼は、この蒸し暑い夏の空気の中でも冷たい机に体を預けているだけ。
ゆるゆると上げて泳がせてみた視線の先には、いつもつるんでいる少年と、その旧友の――彼らからの確たる証言は得ていないが、それでも初対面からあれだけの応酬ができたならばそう考えるのが至極自然だ――転校早々クラスを混沌の底に陥れてくれた少年とが、また軽口を交わしていた。綾(りん)と冲(とおる)だ。
彼は読唇術など使えないが、それでもなんとなくなら何を言っているのか読み取れたし、こちらとあちらで大して距離があるわけでもないからか途切れ途切れに声が届く。それらを脳内補完してみればこんな感じだった。
「ったく、お前はどうしてこう捻くれちゃったのかね。昔はなんでも「りんちゃんりんちゃん」って俺の後をついてきて可愛かったのに」
「止めろよ気色悪い、そんなのお前の脳内妄想だろ」
「それこそ気色悪ぃな。まるで俺がショタ野郎みたいじゃんか」
「……違うのか?」
「違ぇよ!」
もはや意味がわからない。彼は二人の会話を聞くたび、もしかしてこいつらは馬鹿でかいパラボラアンテナやら地球の周りの衛星やらを使ってお互いに電波を送受信していたり、あるいはケーブル直結で意思疎通をしたりしているのではないかと思う。会話がぶっ飛んでいるというか、飛躍しているというか、むしろそれすら通り越してワープしているのだ(いつだったか「恋人にするなら鉛筆と消しゴムのどっちがいいか」という下らなさすぎる議題で三時間近く語り合っていたこともある。どういう過程でそこに至ったのかかなり謎だったが、迷わず「消しゴムだろ!」と言い切ってみせた綾も激しく謎だった)。
とにもかくにもこの二人についての話題は尽きない。二人の会話を聞いているだけで十分時間は潰せるのだ。この少年、白井陸もその一人だが、今日はそんな気分じゃなかった。頭が重く、くらくらする。
「……暑い、だるい、死ぬ……」
……要するに、ただの夏バテだった。
夏休み直前ということでこの高校も例に漏れず短縮授業なわけで(むしろ期末テスト後のテスト休みという形を取っている高校もあるらしい)、部活に精を出す生徒はホームルームが終わるなり弁当を持って仲間たちと一緒に教室から出ていく。とは言っても、どの部にも所属していない颯太にはまるで無縁のものだったが。
しかしせっかくの短縮授業、何もせずにそのまま直帰するのは中々どうして勿体ない。という訳で、自称帰宅部部長の彼を始めとする何人かはとある空き教室に集まっていた。遠慮もなくクーラーをつけて快適に過ごせるように調節する。
「はーらーへーったー」
ぐでん、と効果音でもつきそうな格好でまた机に突っ伏した陸は、クーラーから吐き出される冷風を一身に浴びながら言った。こんな風に集まるだなんて前日に決めていたわけじゃないので、当然ながら弁当は持ち合わせていないのだ。かと言って、部に入っている生徒たちでいっぱいの食堂に降りるにはいささか勇気がない。昼食時の食堂は、正に戦場だ。
やってらんねーよ、と意味もなくぼやいてみたところで、陸は気づいた。いつものメンバーに声をかけて集まったはずなのに、人数が足りない。自分と、最近まで喉の渇きを訴えていた綾と、最近このメンバーに加わった冲と、
「……っとあれ、颯太(そうた)は?」
いつもゲテモノじみたパックジュースばかり飲んでいるクラスメート――一時「潤いがない」なんて彼の前で自殺行為まがいに呟いていた綾は、ひたすら彼のすすめるゲテモノパックジュースを飲まされ続けた。可哀そうに……と陸は彼の身を案じていたが、彼は自身の口内の安全よりも財布の中身を優先したらしく、文句一つこぼさず飲んでいた。『クセになるしょっぱさ★ 栄養たっぷりのゴーヤとサトウキビを配合!』と目に痛い極彩色の文字で書かれたパックジュースを毎日飲み続けた彼を、陸は密かに勇者と称し崇め讃えている――石川颯太がいない。
同じく帰宅部の彼は別段付き合いが悪いわけではないし、何か用事があると言っていた覚えもない(もし何かあるならば誘った段階で断られているはずだが)。
誰かあいつ見てね? と陸が口にしようとした所で、がらりと教室の扉が開いた。地毛とも染めたともつかない淡い色合いの茶髪を汗の浮いた首筋に張り付かせた少年が、その隙間から僅かに漏れ出る冷たい空気に目を細めている。噂をすればなんとやらか、それは石川颯太だった。彼は教室に入ると、外に冷気を逃さないために後ろ手で扉を閉める。
「遅かったじゃん颯太、どこ行ってたんだよ?」
「うにゃ。クラスメートの子らに、漫画借りてたー」
軽く手をあげて問えば、向こうは応えるようにひらひらと手を振って言った。間延びしているその口調は、元来のものというよりもこの暑さによるものだ。どうやら彼も相当にダメージを受けているらしい。
「なー、何か食いもん持ってねぇ? 腹減ってるんだよ俺」
もう死にそう、と視線だけで訴えてみると、びびびと籠められた声を受け取った颯太はまず制服のズボンのポケットに手を突っ込み、そして中身が空なのを確認すると、ぱんぱんと体を叩いた。それらしきものを探してくれているようだ。どうやら見つからなかったのか「む」とふてくされたように唸ると、今度は鞄の中に手を突っ込む。がさごそと遠慮なく中をかき回したあと、「あった」ときらきらした表情で呟いた。
はい、と、言葉と共に差し出されたのは、手のひらサイズの紅葉まんじゅう。
「昨日持ってきてたのが、残ってた」
おーさんきゅ、と遠慮もなくそれを受けとった陸は、べりべりりとビニールの包みを開けた。鞄の中で教科書だか携帯だかに潰され形が崩れたのか、ところどころがへこんで若干ヒトデにも星にも見える紅葉まんじゅう。食べる前にじっとそれを見つめた彼は、ぱくんと、一口で食べた。
「っ!」
途端彼の口内を襲う壮絶な刺激。一般的な紅葉まんじゅうなんだから甘いだろうという覚悟だったというのに何だこれは、凄まじく、辛くて苦くて酸っぱくて、ついでに渋くてしょっぱい。
そうだ、忘れていた。相手はあのゲテモノパックを愛好する颯太なのだから、彼の持っている食べ物もまたその類――つまり陸は、完全に判断を誤ったのだった。
「っておい、陸? 大丈夫かよ陸!」
意識が遠くなっていく。……ああ、
(今度あいつにマックでも奢らせてやる)
復讐を誓って、とりあえず今は、机に突っ伏すことにした。混沌とした口の中の感覚を、なるべく気にしないようにして。