ある朝、足取り重く、薺(なずな)は一直線に伸びる長い渡り廊下を進んでいた。起き抜けなのか、色素の薄い髪が所々ではねている。目元を隠すように巻きつけられた黒い布の中で、髪と同じ色の瞳が眠たそうに細められていた。
基本的に眠気を残さない――つまりは寝られるだけ寝る――彼にとって、この状態は非常にいただけない。さっさと布団にもぐりこんで夢の世界へダイブしたい。
ならばなぜ彼がこんな早朝に起きているのかと言うと。
「くっそ、兄貴のバカヤロー……今度は何の用だよチクショー……」
彼と”ほぼ”瓜二つの双子の兄、綺羅が呼びつけたからである。
綺羅は若干十一歳にして天皇島(すめらぎとう)を統括し守護する”天皇島住民護衛隊”という組織の長である。弟としては劣等感を抱くでもなく、純粋に兄を尊敬しているのだが、いかんせん兄は人使いがとても荒かった。
ぶつぶつとぼやく間に薺は廊下を渡り終え、ぽつんと離れた襖張りの部屋の前に立つ。スパーン、と軽い音で襖をあけながら、中にいるであろう綺羅に向けて言った。
「おら兄貴来てやったぞ、今日は何だ?」
「……んぁ?」
広がった髪をまとめもせず、敷きっぱなしの布団の上で寝巻きを盛大に着崩した綺羅が、薺の言葉に気の抜けた声を返す。そんなだらけた兄に、弟は一喝。
「ッの、兄貴ィ!!」
鼓膜を震わせる大声量に、綺羅は飛び起きた。
「何なんだよいきなり!」
「いきなりも何もねえよ、こんな朝早くからよぉ」
「今日は用があるんだよ!」
「どうせ今日も下らない用なんだろ!?」
「何だと!?」
始まるいつもの口喧嘩に、埒が明かないと薺は話を元に戻した。
「で、何だ用って」
「八千縷を呼んできてほしいんだ」
はあ? と、素っ頓狂な声を上げた薺に、綺羅は「おう、八千縷だ」と返した。自分で呼べば良いだろうに、なぜ一旦薺を呼びつけてから使いっ走りさせるのか。
「俺ん所に寄越した奴を使えば良かっただろ!? なんで俺なんだよ!」
「良いから早く呼んで来い!! 今すぐにだ!!」」
当然の反論をしたが、謎の気迫に負けて部屋を追いだされた。兄はいつだって理不尽なものである。隊長命令なのだから、兄でなくとも逆らえるはずもなかったが。
「おーい、八っ千縷ーぅっ」
小走りに廊下を駆け抜けた薺は、目的の部屋の三メートル手前で「お」を発声し、丁度真ん前で「や」を発声し、名前を呼び終えると同時に障子を開け放った。
我ながらナイスタイミングだ、などと一人小さくガッツポーズしてみる。
「……薺?」
刀の手入れをしていた――薺には朝早くに起きてまでそんなことをする神経が理解できない。彼にとって刀は唯一ではなく使い捨てでしかなかった――八千縷が、呼ばれて顔を上げた。その顔には、「珍しいじゃない薺がこんな朝早くに」という訝しげな心のうちがありありと浮かべられている。
どいつもこいつも、と舌うちした薺は、目的を思い出した。
「兄貴から呼び出し」
「え、綺羅兄?」
小首をかしげる彼女に「そう、兄貴」と答えて、
「じゃあ俺は部屋に戻って寝るから。絶対に誰も寄越すなよ」
と言い置いて彼は部屋の敷居をまたぐ。そしてひらひらと手をふって廊下の向こうへと消えていった。そんな彼は、
「そんな風に言われるとやりたくなっちゃうじゃない」
という八千縷の言葉を知らない。
足音無く歩を進めながら、八千縷は何の用だろう、と考えてみる。珍しく早朝に幼馴染が訪ねてきたと思えば、兄がお呼びだと言う。また書類で指でも切ったか、それとも起き抜けで足が攣ったか。
まあ何でもいいや、と考えるのをやめた。呼びつけられるのは日常茶飯事である。薺が勢いよく閉めた反動からだろうか、わずかに隙間の空いている襖に手をかけた。
「綺羅兄、何の用?」
「八千縷か」
立場上、「隊長」と呼ばなければならないのだが、彼女らは気にしない。ほとんど身内に近い。
ころころと畳の上でりんごを転がして遊んでいた綺羅は、それを両手で持って言った。
「りんごむいて」
なぜか口元が綻ぶのがわかる。
「もう、甘えん坊ねぇ」
違ぇよ! などと慌てて否定する幼馴染に、彼女はまた笑う。
「じゃあさみしがり屋さん?」
伸ばされた手のひらから赤い果実を受け取って、器用にも刀で皮を剥いていく。うすっぺらく伸びていくそれは、畳の上でとぐろを巻き始めた。朝っぱらから元気にわめく綺羅を見て、ああ、うさぎさんにすればよかったとどうでもいい後悔をする。
彼ら兄弟はあまり親というものに縁がなかったものだから、「そういう」物事にも縁遠い生活を送っている。もちろん周りの大人たち、特に一縷が手をかけて「そういった」ことに不自由をさせないようにしていたけれど、それでも。
まぁ半ばまで剥いてしまったのだから、仕方がない。皮がうさぎの耳になるように剥いたりんごはまた今度食べさせてあげるとして、今回はまた別のうさぎの形にしてやろう。
八千縷は持てるすべての技術を傾けてりんごを芸術的な曲線を描く「うさぎの形をしたりんご」を完成させた。後ろ足で体を支えて立ち、遠くの音に耳をすませるかのように小首を傾げるかわいらしいうさぎである。
「お、おま、なんだこれ! すげえ! かわいい!」
もったいなくて食えねえわこれ、などと感動にうち震える綺羅。それだけで作った甲斐があったというもの。八千縷はふふんと得意げに笑ってみせた。彼はたいそう可愛いもの好きなのだ。
かわいいなあと思う。もちろん二人の年は同じであるが、ふとした瞬間に見せる幼さや精悍さに、親子のようにも兄妹のようにもなれるのだから不思議だった。
「今度はひよこさん作ってあげようか」
「ひよこ! 絶対だからな!」
一体どのようにしてこの芸術的なりんごを食すのか――そもそも彼がこの可愛らしい芸術品を食せるのかどうかは別にして――決めかねていた綺羅が、はじかれたように顔を上げる。きらきらと名前の通り輝く笑顔に、八千縷もつられて笑う。
そんな、ある日の朝。天王島は幸せの中にあった。