弐章 裏の世界

 何気ない静かな日常に、
 もしも「裏側の人間」が現れて、
 もしもそれが自分にとって大切な人だとしたら――?



 数分前のこと。
「カインがやられたそうだが、どうする?」
 パチパチと音を立てて燃える札をつまらなさそうに摘み上げ、金髪の女が言った。彼女と同じ色の髪を持つ青年は「知らないよ。姉ちゃんが行けばいいじゃん」と返す。
 冷たいなぁ、と彼女が呟くと、彼は毅然とした声で言った。
「彼が望むものは、助けじゃないよ。」



 薄暗い紺色の世界に、髪の長い女が一人。果ての見えない広い世界の中に、彼女と綺羅、ただ二人だけが存在していた。綺羅は彼女に話しかける。
「ここはどこ? オレは死んだの? ……ねぇ、どうしたの? 大丈夫?」
 彼の言葉に女は顔を上げ、浮かない表情で言った。
「私は純利っていうの。君は誰?」
 投げかけた問いに全く答えを返さなかった彼女に、綺羅は首を傾げる。困った、これでは自分が今どんな状況なのかが全く分からない。記憶を手繰ろうとも今まで何をしていのか思い出せはしないし、ここがどこなのかも見当がつかない。とりあえず、目の前にいる彼女と話を続ける。
「オレは綺羅、だけど……泣いてたの?」
 その問いに純利は遠くを見やり、「涙が出ないの」と答えた。瞳の奥に、悲しみと憂いと、虚無だけを湛えて。
「ここは、死と生の間(はざま)だから」
 それらを感じ取った彼は、悲しそうな顔と声音で問う。
「生きたいの?」
「うん、でも、行けないの」
 純利はそこで一旦言葉を切ると、彼の後方を指さす、そこにはまるで誘うように、あるいは誰かを引きずり込もうとしているかのように、暗い闇が歪みうねっていた。それは綺羅を捉えんと自身の一部を触手のように伸ばす。
 ぞわり、と悪寒がした。彼女はトン、と綺羅の背を押し外へと逃がし、代わりとばかり自分の身をその中へと投げ入れる。
「……まだ、行くべきじゃない。貴方はまだ、行くべきじゃない」
 闇の入り口は彼女で満足したか、その細い体を絡め捕ると、ゆっくりと閉じていく。純利は微かな笑みを口元に乗せて、「覚えておいて」と、言葉を紡ぐ。
「貴方の母親の名は、純利」
「っ」
 綺羅は闇へと手を伸ばすも何も掴めなかった。目の前で、深く暗い闇が、口を閉じる。 ひらりと、その名残の中を銀色の長が静かに舞った。



「綺羅……ごめんなさい」
 純利は、闇の中でぽろぽろと涙をこぼした。頬を伝った雫が彼女の足もとで弾ける。
「あなたの弟は……っ、」
 彼女が思い描くのは、
「もう……いないの」
 幼くして死んだはずの、しかし今もなお真っ当な人間の顔をして生きている、薺だった。

 彼女が最後に見たものは、決して動くことのない小さな掌。

 綺羅と薺、二人を産んだことにより体を壊してしまった彼女は、それでも三年間、寝たきりになりながらも彼らを育てた。夫、仙堂犀羅と共に。衰えていく視力と聴力を自覚して、そして自身の死期を悟ってからも。
 しかし光と音を失い薺をも病で亡くし、彼の亡骸を抱いて彼女が長い眠りにつこうとした時。

 誰かが手を差し伸べた。



 はっ、と、同じ時間、別の場所で、綺羅と薺は目を醒ます。兄は傷の痛みで発作的に、弟は夢見の悪さから。
「俺が死んでて……っ、何それ……」
 呆然と呟く薺に、傍にいた一縷は悲しそうな表情を浮かべる。彼は、その呟きの意味を、識って、いるのだから。
 前髪をかき上げる薺が、
 視線を伏せる一縷が、
 憂いを瞳の奥に覗かせる八千縷が、
 線香の前で手を合わせる忍が、
 無表情な、あるいは心配そうな表情で手をつなぐ夏希と冬希が、
 そして綺羅が、同じ三日月を見上げた。

 誰も眠れない夜が――動き始める。



「ここ、どこだ……?」
 日に焼けた畳の敷かれた見慣れない部屋で目覚めた綺羅は、身を起こして呟いた。着流しをはだけると、傷口はしっかりと塞がり、白い肌には痕一つ残っていない。数日間も眠っていたような気配はない、これは八千縷の治療だろうか。
「じゃあここ、家……? 半殺しにしといて逃げたとか? ……まさか」
 でもそれにしては知らない部屋。悶々と呟いてふと眼をやった場所に、カインと同じ顔、同じ雰囲気の男がいた。前髪を赤のピンでとめて黒縁の眼鏡をかけ、こちらが起きた気配にも気付かず一身に本を読んでいるその彼、と、
「……」
「……」
 ばっちりと目が合ってしまった綺羅は、「だっ……、ど?」と口ごもってから口を開く。
「えと……どなた……ですか?」
 たどたどしく喋った彼は、ぽかんとこちらを見ている男の反応など気にせず、
(け……敬語のお勉強とか、きちんとしないといけない……)
 常にトップであったがために必要なかった敬語について考えてみる。周りの年かさの人間はいつも自分に対して敬語だったし、隊長として自分は貫禄充分に君臨していなければならなかったし、何より彼には物事を学ぶという時間がなかった。五歳で父を亡くしたその次の日から、彼は隊長として、Top of the Island――最強の称号を冠していたのだから。
 一方眼鏡の男は、綺羅の上目遣いや赤くなった頬を見てびびっと何かを受信、
(とってもかわいい!!!)
 思わずにやけそうになる口元に手をやった。そして、
「ちがうっ」
 と唐突に叫んだ彼は、驚いて肩を震わせた綺羅をよそに本や眼鏡をポイポイと捨てていく。
「眼鏡は別に目が悪い訳じゃないし本は暇だから読んでただけだしピンは紙が邪魔だからとめてただけであああああああああああああああああっ! この本はあの、爺くさくないけどえーっとその……ああああああああ、だから別に眼鏡でイメージ作ろうってことじゃなくて、……でもさーあいつと全くそっくりな顔もちょっと嫌だし、あっでも別に老眼とかじゃなくて……」
 などとぶつぶつ呟くカインに良く似た男に、綺羅は「激しい……独り言?」と首を傾げた。カインに似てはいるが、声や語調など、端々がどこか彼からずれているようだ。すると、

「うっさいんじゃ己はあああああああああ!」

 同じく煌めく金髪を揺らした女がハリセンを男の頭にヒットさせながら――それもかなり痛そうな音がした――落ちてきた。うっかりばっちりクリティカルヒットしてしまった呟き続けていた男は「舌噛んだ! 痛い!」と喚く。
 曇りない金髪に透き通った水色の目を持つ女は切りそろえられたその髪を揺らして、
「ちったぁ静かにしやがれってんだ。こっちゃあ朝夕問わずに仕事してるっつーに」
 と不機嫌そうに言った。
 叩かれた頭と口に手をやった男は、「だって……姉ちゃん……」とうっすら涙を浮かべながら彼女に耳打ちする。それを聞いた女が、ぼそりと言った。
「ロリコン男め」
「ええ!?」
「略してロリ男」
「略さんでいい! 何か変な意味を持ってるような気がする!」
 と言い返した。そんなハイテンポで展開されたコントに呆ける綺羅をちらりと見やり、女は「まぁ、そういう見方もできるな……」と視線をそらして口ごもる。ちなみに耳打ちの中身は「あの子すっごくすっごくすーっごくかわいいよね庇護対象でしょ?」であったのだが、当の綺羅は知らない。
 へへーん、どうだ、と阿呆そうに胸を張る男をよそに、女は「言い忘れていたが……」と口を開く。
「マリア・カルロスだ。以後よろしく」
 胸に手を当てた彼女、マリアに、綺羅は、
「ど、どうも……仙堂綺羅です」
 ぎこちないながらも自己紹介した。マリアは「ああ、かわいい……」などと悶絶している男を指差し、
「彼奴はバカで済ませたいのだが……私の弟で、リア・カルロスだ」
 とひどく嫌そうに言った。綺羅は独特な雰囲気に押され生半可に答える。彼はずっと疑問に思っていたのだ。この二人もまた、天皇島で使われていた着流しを着ていることに。型も使われている生地も、全てが全て、まるで同じなのだ。
(あのロボット野郎と同じ……?)
 と、そこまで考えて、
 ス……、と、
 今まさに考えていたくすんだ金髪を持つ男、カインが、まるで始めからそこにいたかのような自然さで、リアのすぐ隣に現れた。全てが等価値でどうでもよさそうな、冷たい視線で周りを見やる。心なしか、顔色が優れないかのように見えた。
「っ、てめぇ、」
 あの時殺したはず……っ、という言葉を飲み込む綺羅にカインは、
「……仙堂綺羅、カルロス様がお呼びだ」
 と言葉をかける(対峙していた時よりもよっぽど声音が低く青ざめてすらいるが、綺羅はそれに気付かない)。
「カルロスさまぁ? 誰それ」
「私共の父、ラグレイ・カルロスだ」
 俺の知ってるカルロスって奴はみんなここにいるぞ、と姉弟を指して首を傾げた綺羅に、マリアは解説を入れてやった。更に言う。
「知っていると思うが念のため。彼はカイン・ゲリックだ」
「いえ、知りませんでした……」
 まるで知っていて当然のような物言いに縮こまる綺羅。彼女の空気にはなんとなく合わないものを感じていた。反りが合わない、馬が合わない、気が合わない、何でもいいが、とにかく、合わないのだ。
「ついて来い」
 ぶっきらぼうに言ったカインは「さっさと来い」とばかり視線で訴えてくる。緑青の瞳にはあまり力が入っておらず、視線がふらふらとさ迷っているかのように見えた。やはり、その顔色はひどく悪い。彼は綺羅の返事など聞くつもりはないのか、反転、来た道を戻ろうとする。その中でもまた一度、ふらついた。
 一方かつての敵であり、そして今でもどちらかなのか判別のつかない詳細不明の彼に従うべきか僅か迷い、また訳も解らず命令されたことへの歳相応な怒りから、ギリ、と一瞬歯噛みする綺羅だったが、
(敵意は、ない)
 目の前にいるカインの視線や声や立ち居振る舞いからそう冷静に判断を下し、踵を返した彼の後についていく。くるりと部屋へ向けた背に、リアの呼ぶ声がかかった。
「うちの父親に……気をつけて」
 忠告と言うよりも警告と言うよりもいっそ制止に近いその声音に少しだけ足を止めた綺羅は、ギリギリ聞こえる程度の小さな声で「どうも」と溶かすように言った。
 その意味を完全に理解しないまま――綺羅が行ってしまった後、残されたマリアはうっかり余計なことを言った弟に口を開く。
「父上に怒られるぞ?」
 怒られる。それは、つまり。
 何をされるのか今までの記憶から探り出してしまった浮かない顔の姉に、彼は静かに答えた。
「親父が怖くで――――ショタコンなんて出来るか」
 明らかな強がりを見てとって、ぽつりと呟く。
「怖いだろうが……」
 いつだって父親は、彼らにとって恐怖の対象でしかなかった。