壱章 小さな友情

 崩れ落ちる夏希と薺を少し離れた場所まで抱えて運び――男は一縷に任せた。あの男は相当に強いが、それに押されるほど一縷は弱いわけではない――綺羅は、心配そうに問うた。
「薺……大丈夫か?」
 いつも目の周りに巻いていた布が斬撃によって裂かれ、ぱらりとめくれている。薺は全身から滴る血を止めようともせず顔を押えて、唸るような低い声を紡ぐ。来るな、見るな、と。早く治療させたい綺羅だったが、「兄貴……頼む」という弟からの追いつめられたような声に遮られる。
「……悪い」
 指と布の隙間から見えた顔面を走る刺青、そして震えていた彼の声に綺羅はふいと視線を外した。その背に「ごめん……兄貴」と声がかかる。
 その様子を見ていたのか、不意に男が言った。切っ先は、既に下ろされている。
「――気になるのか? 自分の弟のことが。何なら教えてやってもいい。……癸八千縷の力についても」
「何者だよ、てめぇ……何で八千縷の力のこと知ってんだ」
「何故教える必要がある」
 明らかに臨戦態勢を取った綺羅にも構わず男は眼を細め、髪すら揺らさない恐るべき神速で刀を抜くと、
「っ!?」
 鍔迫り合っていたはずの一縷の刀を一瞬の力だけで根元からへし折り、刀の峰を一縷の即頭部に叩きつけた。一縷が膝をついたのも見ずに彼は、抑揚のない低い声で綺羅の名を呼ぶ。
「知りたければ着いてこい」
 私を倒せたら教えてやってもいいとだけ言い足して、彼は消えた。口の端に僅かな笑みを滲ませて。一瞬の沈黙の後、綺羅は口を開く。
「何、で、あいつ、オレらのこと知ってんだ……?」
 折れた刀の柄を握ったままの一縷が、「天皇島のことは本土の連中には知られてないはずだぞ?」と答えるが、当然綺羅の求める答えではない。確かにこの国の領海の外れの外れ、辺境だとか辺鄙だとかを軽く通り越したような場所にある天皇島は誰にも知られていないはずだった。少なくとも史料の中に本土との交流はまるで記載されていないし、この綺羅の代でも全く関わりがない。
 思索に耽ろうとする彼らを止めるかのように、夏希が綺羅の名を呼んだ。何だと疑問符を浮かべる彼に、彼女はぎゅっと両掌を二議、涙を流しながら言う。
「ごめ、ん。私のせいで弟怪我させちゃって……」
 嗚咽を堪えた彼女の言葉に、彼は「は?」と一文字で返した。呆れたような呆けたような表情と共に。
「謝られても困るっつの。むしろ謝られぇ方が感謝だっつーの」
 言うだけ言った綺羅は(本当に言うだけ言った。返事を聞くどころか返事を挟む隙すら与えなかった)、「それじゃあ行くわ」とだけ言って彼女に背を向けた。
 ごめん、か、ありがとう、か、気をつけて、か、夏希が言葉を選んでいると、

「ちょ――――っと待ったぁぁあぁあ!」

 冬希の傷の手当てをしていたはずの八千縷の大声量が耳に届いた。明らかな殺意すら見える鼓膜を破らんが如きその声に二人は振り返る。そこには、ずん、ずん、ずん、ずん、と効果音のつきそうなほど足取り重く、予想通りの少女が。
 そして、
「ぅっ!?」
 がばっと綺羅に抱きついた。彼の胸に頬を寄せ、「行かないで……」と小さく言う。どうすればいいのか分からず彼が手を視線をうろうろと泳がせていると、
「嘘だよ」
 と八千縷が言った。だましたな!? と綺羅が素っ頓狂に叫ぶと、「だけど」と彼女は悲しそうな優しい笑みを浮かべて言う。
「お願い、死なないで」
 言われた綺羅は照れたように笑って、「応っ」と返した。ありがとう、と小さく礼を口にすると、背を向けて走り出す。小さくなっていくそれには何の迷いもなかった。 八千縷の涙が一筋流れたと同時、チリン、と鈴が鳴る。
「お守り渡すの、忘れちゃった」
 そう言って笑った彼女の手の中には、鈴を縫い付けた小さなお守り。
 チリン、と鈴が鳴る。
「……っっ」
 堪えていた涙が一気に溢れ、八千縷は傍にいた兄に抱きついた。行ってしまった。行ってしまった。兄をほとんど一撃のもと沈めた男のもとへ。勝てるかどうかなんてわからないのに、生きて帰ってこれるかすらわからないのに。
 抱きつかれた一縷は意地を張っているようでまだまだ弱い妹の頭を撫でながら相槌を打つ。ぼろぼろと涙を流して泣く彼女に彼は、
「強がり」
 と呟いた。八千縷は「うん――っ」と嗚咽交じりに言って、兄に縋りつく。彼は苦笑しながら頭をかき、ぎゅう、と妹を抱きしめた。
 そんな――そんな様子など見えていない薺は、人間味の抜け落ちた表情で体を丸め、ぼそりと虚空に言葉を溶かす。
「いつまで…………人間として生きていられるかなぁ」
 巻いていた布に隠れていたのは、「727」と刻まれた獣の素顔。



 ドッ、と鈍い音と同時、薄汚れた壁に鮮血が散った。「くすのき」とネームペンで書かれた名札をつけた少女のものだ。
 男は先ほど叩いた彼女の頭を踏みつけ、「誰が休めと言った」と吐き捨てるように喉を震わせる。たかが人形の分際で、そう、あんな子供たち相手に立ちまわれないなどと――
 床に叩きつけた少女を今度は蹴り上げ襟をつかむ。
「誰がお前を作ったと思っているのだ」
 響いたのは地を這うような声。害意どころか殺意を滲ませた瞳を間近で受け、「申シ訳ゴザイマセン、カイン、サマ……っ」と少女は血塗れでぼろぼろの体で必死に言葉を紡いだ。カイン、と呼ばれた男はさらに手を上げようとして、

「人間の急所を教えなかったお前にも責任があると思うぜ?」

「……もう着いたのか」
 息を切らした体の少年の声に阻まれた。見やると、壁に手をつき肩で息をする綺羅がいる。
「バカヤロ……血痕みたらわかんだろうが」
 確かに彼の言うとおり、その後ろに続く廊下には点々と血が落とされていた。彼はこれを辿ってきたらしい。
 馬鹿はお前だ、とカインはひどく愉しそうに緑青の瞳を揺らして口を開く。
「気づかなかったのか? この建物は昔牢として使われていたのだ。一度入るとなかなか外へ逃げられなくなる」
 それを聞いた綺羅は半目になって「だーかーらー」と前置くと、
「知ってるっての」
 ひょいっと少女を抱え上げた。軽々と抱えられた少女は驚いた顔で彼の名を呟く。彼は離れた場所に少女を下ろすとおもむろにカインに近づき、
「お前がこいつ作ったんなら」
 ぐっ、と腕を引き絞り、
「最後まで面倒見やがれっ!!!」
 溜めた力で全力でカインを殴りつけた。細腕から出されたものとは思えないほどの力が彼を吹っ飛ばす。それを見ていた少女はその中で何かがカチリとはまった気がした。
(忘レテイタ感情、呼ビモドレ――――)
 彼女の体が柔らかい光に包まれ、姿が変わっていく。
「なんだよ……これ……」
「まさか、このようなことが……」
 呆然と綺羅が言い、カインはあり得ないと首を振りながらうわ言のように呟いた。
 そんな彼らの目の前で光は弾け、霧散する。
「死人が生き返るなんて――――!!」
 もう残滓すら薄れ消えた光の中心、そこにいたのは、ウェーブのかかった長髪を揺らす着流しの女だった。体を半分透かせた彼女は艶やかに微笑み、言う。
「ありがとう、仙堂綺羅」
 綺羅は慌てて「お、オレは何も……」と言うが、「ううん」と女は否定し彼に手を伸ばす。とても穏やかな笑みを浮かべて、彼女は抱きしめるように綺羅を包んでから、ふわりと、消えた。その時感じたのは恨みでも未練でもなく、ただの温かい温情。
 彼女には本当に未練などなかったのだ。カインの作った液体ロボット――くぐつに押し込められ、意味もわからずに使役されていただけで。

「っ!」

 不意に、感傷に浸る綺羅の眼前に剣先が突き出された。眉間を貫かんとする圧倒的破壊力を秘めたそれを彼は反射的に身をよじって交わす。しかしぱっくりと裂かれた頬に顔をしかめてその血を拭うと、カインは刀身に指を這わせて「油断しすぎだ小僧」と嗤った。
 油断なんかしてねぇ、と叩きつけるように言って綺羅は神速、カインの後ろへと回りっ振り返った彼に向け渾身の突きを放った。
「な……ッ」
 驚愕の声を上げたのは、しかし綺羅だ。
 突きは綺麗に決まった。全体重を乗せた綺羅の刀は避けられることも受けられることも流されることもなく、心臓があるはずの左胸に刺さったのだ。普通の人間ならまず致命的な傷だ。だがカインは、
「何、で、笑ってだよ、お前」
 とてもとても愉しそうに、嗤っていた。一瞬でも気を抜けば即座に命を奪われる戦場にありながらただならぬ恐怖を感じてしまった綺羅は「くそっ」と悪態をつきながら飛び退る。
 カインはとても致命傷を負ったとは思えない動きで開いた距離を詰めると、全力で刀を振り下ろした。綺羅はそれを受け止めるが、彼はそれすら予想していたかのように刀を引き、後ろへと飛ぶ。その動きの中で、切っ先を綺羅の顔に掠めることも忘れずに。
「っっ!」

 目のぎりぎり下を斬られる激痛に綺羅は反射的に刀を振るった。しかし血を流しすぎたか力が入らない。かくん、と膝から崩れ落ちそうになる。絶対ぇここ空気少ねぇだろ、と呟きながら刀をつえ代わりにして持ちこたえた。今日一日でどれだけの血を流しただろうと、思考の端でそんなことを考えながら。
「……油断を、しすぎたか」
 息も絶え絶えのカインは、血の尾を引きながら倒れた。心臓を貫かれたにもかかわらず己をギリギリまで追いつめて見せた彼に、綺羅はぶるりと身震いして呟く。
「怖ぇ……俺、こいつともう一回やり合ったら死ぬ自信ある」
 何よりも明らかな殺意と戦いを愉しむ異常な精神、
(つか何者だよあの野郎……)
 超人的とも言える身体能力、そして、
(オレらと同じ服と、刀……?)
 今や天皇島以外ではあまり見かけない着流しの、それも天皇島にしかない型のそれに、法で禁じられ大っぴらには持ち歩けなくなった刀。それらは綺羅に不信感を抱かせるに十分な材料となる。
「さてと、早く帰……あっ!」
 とりあえず帰ろうとして、綺羅は気づいた。

 もこ、と床が波打つ。
 まるで生きているかのように。
 まるで意志を持っているかのように。

「あいつに薺と八千縷のこと訊くの忘れてた!!」
 しかしもう遅い。彼は既に倒れ伏し、口のきけない状態になっている。綺羅は僅かに血に濡れた前髪をかきあげて座り込んだ。
「あああああ、どうしよう……」

 その彼の足もとで、また床が波打つ。
 まるで狙いを定めるかのように。
 まるで彼を狙っているかのように。

 当然のようにそれに気づいていた綺羅は(始めはただのカインの起こした不可思議の名残と思って放置していたのだが)、鬱陶しそうに足下を見、怖ぇよ、思いながら呟いた。
「なんだよ、さっきからもこもこもこもこ」
 そして、知る。
「な、何だ、これ」
 ぼこぼこと波打った床が、自身を取り囲んでいることに。それらは鋭く研がれた刃へと姿を変えると、
 ドドドドドドッ
 綺羅の小さな体を貫き抉った。先の戦闘での血が乾き始めていた床に新しい血が流れ落ち、部屋には鉄の臭いが立ち込める。
 金糸の髪を揺らす女が、じっとそれを見ていた。