袋小路や曲がり角の多い通路を持つ鉄錆びた廃屋、すっかり朽ち果てたそこに置かれた真新しいコンピューターの画面に、
「ん? あの役立たずからの電報か?」
新着メールが届いたとの通知メッセージが。ほんの数秒、僅かな動作でそのメールは開かれた。画面には、「重要人候補 癸一縷・仙堂綺羅」の文字が。
それを見た綺羅たちと全く同じ着流しを着た男は口端を吊り上げ笑うと、
「ああ、なかなかといい情報じゃないか」
ぎしりと椅子を軋ませて立ち上がり、半開きの扉に手をかけた。その手は、いっそ病的とも言えるほどに白い。
「さて、役立たずの回収と候補へのご挨拶へ行こうか」
近づいてくる敵に、今は誰も気付かない。
「は? 忘れてた?」
目を点にして素っ頓狂な声を上げた夏希に、血を拭い終わった綺羅は悪びれもなく「ああ」などとのたまった。
「だから、こいつとお前のことをすっかり忘れてたって言っただろ。……それが?」
あまつさえ付け足された「それが?」という言い草と「オレは何も悪くないだろう」的な声音にピキッと青筋を立てた夏希が声を荒げようとする、その前に、
「あの……ごめんなさい、私のせいで怪我させて……」
冬樹の遠慮がちな謝罪が彼女の憤怒を遮った。別に気にしてねぇよ、と綺羅が前髪をかき上げてそれにこたえる。それはとても自然な、労わりにも似た声色だった。その中にまるで沁み入って来るような優しさを感じて、冬希は、嗚咽を漏らさずに静かに涙を零す。
(ああ、夏希ちゃん以外に優しくされたのは初めてだ――)
『ごめーん、今日の掃除当番代わってくれない?』
『いいよっ』
ほんの二年前まで、冬希はどこにでもいるような明るい子だった。学校が好きで勉強はあまり好きじゃなくて、近所の友達と遊ぶのが大好きだった。
『あ、私のもお願い』『私のも』
『そんなにいっぱい出来ないよ……』
だからその時も別段勇気を出して断った、というわけではない。ほんの軽い気持ちだった。しかしその一言で、彼女への苛めは始まる。
上履きに入れられた押しピン、机の中に入れていると破られた教科書、周りから向けられる見下すような視線。
しかし当時、それらよりも彼女を傷つけたのは、
彼女の目の前で、母親が父親を殺したことだ。
憎しみに満ち満ちた母の目とどす黒い血に塗れた父の体。
『お父さん?……お母、さん?』
目の前で繰り広げられるその惨劇の意味がわからなかった、否、把握できなかった冬希へと――命をなくして床に倒れた夫から視線を移した彼女の母は、
『何笑ってるの?』
まだ生ぬるい血に塗れた、人を殺したばかりの手で、
『そんな顔するのやめなさいっ』
冬希を叩いた。その頬にももちろん血は付くが、既に彼女の母はそんなことに構っていられるような精神状態ではない。足音荒く去っていく母の後姿を見ながら、冬希は静かに泣く。
『こんな顔に産んだのは母さんなんだよ……?』
その、少しあと。
『あおいつの父親、母親に殺されたんだって』
『物騒だなぁ』
『それで「浅野さん」に引き取られて「浅野冬希」になったんだってー』
『あ、何か「浅野さん」笑ってるよ』
ひそひそと絶え間なく周囲で囁かれ続ける中、彼女の苗字は変わった。だが彼女への苛めはさらにエスカレートする。遠回しのものではなく、暴力にも近い、直接的なそれへ。周りにいた者全てが見て見ぬふりをし関わろうとしなかった中、それを助けたのは夏希だった。
『大丈夫か? 私は黒墨 夏希っていうんだ!! よろしく』
それから彼女はずっと冬希を守り、隣にいた。今も変わらずに。
血まみれでしばらくは使えそうにない着流しから制服に着替えた綺羅の耳に、
「あの二人、異性同士だといい感じじゃない?」「だよなー」
という会話が届いた。扉を開けようとしていた部屋から漏れる八千縷と薺の声である。
「……なんて会話してんだよお前ら」
交わされる言葉の端々に何となく不安を覚えた綺羅が思わず問うと、部屋の中にいた八千縷が振り返り、にこりと少女めいた――彼女は間違いなく少女なのだが、いかんせんと素行にそれを疑うものが多すぎるのだ――笑みを浮かべて言った。人差し指で口の端を引っ張った薺が、「いーっ」と馬鹿にするような子供っぽい表情で隣の彼女の言葉を継ぐ。
「今、桃知先生と情報交換してたの」
「兄貴の隊長時代と、あの二人の関係を引き換えに」
三つ編みを揺らした忍が、部屋の奥――扉の陰になって見えなくなっていた場所から「隊長さんどうもー」と手を振った。勝手に人の情報を売るなよ、と兄として突っ込んでおいた綺羅は、
「オレからも聞いておきたいことがある」
とにかく何としても聞いておかねばならないことがあることを思い出した。今、とりあえず事が片付いたこの状況でなければ、聞き逃してしまうかもしれない。
「楠、とか言う液体ロボットがいつ転校してきたか……について」
予想外の問いだったのか――何せ彼女は「液体ロボット」については全く知らないのだ――目を見開いた忍は少しの間沈黙すると、目を伏せ、一言一言言葉を選びながら口を開く。
「あの子が転校してきたのは二年前の春……ちょうど、冬希の父親が亡くなった直後よ」
もちろん問うた側の綺羅は、液体ロボットが転校してきたなんて事実は知らなかった。けれど、「始めから学校に通っていたそれが偶然にも冬希を襲う」だなんてことは考えられない――だからカマをかけたのだ。ドンピシャというのだから少しは驚いたけれど。
妹と弟分たちの戯れに関係ないとばかり顔を背けていた一縷も、今では忍の話に耳を傾けている。
「あの子は性格や成績が良かったり悪かったりして目立つことは全くなかったわ。本当に、どこにでもいるような子だった」
私が知っているのはこれくらい、と言って締めた忍。時間軸や環境も考慮にいれて思索していた綺羅はすべての関連性を口にする。
「ただの偶然じゃねぇよな」
つまり、何者かが意図して液体ロボットを冬希のもとに送り込んできたということ。
「っ、……侵入者だ」
ずっと黙って話を聞いていた一縷が、弾かれたように顔を上げて言った。何か異質で凶悪な殺気がちくりと肌をさす。向こうは気配を隠す気など毛頭ないらしい。
僅かに遅れて侵入者の到来を感じた綺羅は袖のボタンを外しながら「困ったな……また着替えないと」と零すと、一縷は「いや」と彼の言葉に割り込む。その顔は、今まで八千縷ですら見たことがないほどに、青ざめている。
「そんな暇ないくらい、速い……!!」
途端、
「ひ……っ、きゃぁあぁあぁああぁあ!!!」
「ッ!?」
絹を引き裂くような悲鳴が響き渡った。
「何を……何をしてるんだお前……やめ…………っ!!」
夏希は震えていた。目の前に広がる光景を認めたくなくて。
「やめろ――――!!!」
綺羅と同じ着流しを着た、見慣れない男の持つ刀が、
冬希の細い体を貫いていると。
男は鬱陶しそうに夏希に目をやると、
「うるさい小娘だな」
ぼろぼろと泣き崩れる彼女の背後へと俊足で回り、
「え……?」
突然揺れ滲む視界から彼が消えたことに呆然としている彼女の顔面へと場違いなほど煌めく刃を叩き込もうとして、
「危ねぇな」
その横合いから割り込んできた刀に阻まれた。ぶつかり擦れ合った刃と刃が鈍くも高い音を立てる。ぎゅうっ、と向かい来るものへの反射的に目をつぶっていた夏希が恐る恐ると目を開くと、
「仙、堂……?」
小柄な体、身に纏った制服には到底似合わない刀を構えた綺羅がいた。冬希が、と同じ名前しか繰り返さない夏希に「ああ、知ってる」と短く返すその顔には、何の感情も浮かんではいない。完全に怜悧な視線だけがくすんだ金髪の男を睨みつけていた。
後を追ってきた八千縷はその間にも冬希を安全な場所に運び、薺は夏希の腕を引っ張る。
「何すんのっ」「は? だから逃げ――」「何で逃げんのよ!? 私はここに残んの!!」
ぎゃあぎゃあと言い争いを始めた二人に綺羅は「あちゃー……」と呟いた。基本的に似た者同士の二人なのだ、こうなるのは当然とも言えるだろう。
「放してよっ」「早く行かねぇと死ぬぞお前!?」「いやーっ、絶対逃げないッ!!」
頑として動こうとしない夏希にとうとう薺がキレたか、「いい加減にしろ!!!」と気絶させん勢いで彼女を殴った。ドス、と鈍い音がした。男は一時攻撃の手をやめそんな彼らの様子を傍観したあと、視線を手の中の刀に移す。そして、
「痛ぁ……」
「痛いのはわかったから早く立てよ!!」
未だうるさく騒いでる薺の顔を横切るように、己が刀の切っ先を滑らせた。遅れて二閃、三閃と続け様に刀を振るう。浅いとは言え全身を斬り裂かれた薺は、熱にも似た激痛に耐えられず、叫ぶ。
「う、あ、っっ、うぁああああぁあぁあぁあぁぁぁああ!!!」
同時に、斬撃から刹那遅れて刻まれた傷から鮮血が散った。隣にいた夏希にも当然、それは散る。ぴしゃん、と頬についた僅かに温かいそれを指先で拭った彼女は、その鮮烈な紅に呆然とする。
「これ、は、血……? 何がどうなってんの……?」
ぐらりと体を傾かせる薺に止めを刺さんと男は強く踏み込んだ。しかし、
弟の前に回り込んだ綺羅は男の刀に自分のものをかち合わせ、男の隣に背を合せるように降り立った一縷がその首に刀を押し当てる。
殺伐とした色を湛える彼らの刀、流れる血、流れる刀、それら平和とな無関係な、今までの生活とは無縁な光景に夏希は「……どうなってんの?」とどうにか言葉を絞り出した。平和な現実からの離反を拒絶するかのように彼女の瞳から涙がこぼれる。彼女はまるで救いを求めるように隣の薺を見やった。
しかし彼は、真っ赤な血飛沫を上げながら崩れ落ちていく。
血の気が引いた気がした。
自分が彼の言うことを聞かなかったから、だから彼は、斬られたのだと。