ガラガラと教室の扉を閉め、一縷はふうと一息つく。妹と幼馴染の性格が直らないのはもう諦めたが――伊達に兄として長い間面倒を見てきたわけではない――やはり、面と向かってあそこまで言われるのは少し、いやかなり傷つくのだ。いくら彼でも心は脆い。
どこで教育間違っただろう、と真剣に過去を思い起こそうとした途端、その背に何かがぶつかった。急ぎ振り返ると、そこにはうっすらと涙を浮かべた綺羅が。転校初日での彼のその涙に、一縷は少なからず狼狽える。
「た、たいちょ……綺羅!! どうしたんだ!?」
思わず昔の階級まで口走ってしまうほどに。
翠の瞳いっぱいに涙を湛える綺羅は「りっ、リーゼントぉ……たばこ、暴力女ぁ……ぁう、不良先生ぇ……」と小さく震える声で縋りついた。さながら、神に慈悲を乞うものにも近い。
「リーゼント!? タバコ!?」
おおよそ小学校ではまず聞くはずのないその単語たちに一縷は驚き、今にも泣き出しそうな彼に何と声をかけるべきか迷っておろおろと手を彷徨わせる。
すると、彼らの視界の外で滑り込むような、靴裏のゴムと床がこすれる音がした。振り向くと、やけに露出度の高い服に身を包んだ、くすんだ金髪を三つ編みにセットした女。どうやらここまで走ってきたらしい、息が上がっている。
「……その子と知り合いですか?」
荒い息の隙間に混ぜるように、女、忍が問うた。小学校舎内ではまず見られないだろう派手な格好の女に、一縷はそのまま問い返す。
「……担任の方ですか?」
その会話の流れからして教室に連れ戻されることを感じ取った綺羅は、「絶対行かねぇ!!!」と涙目のままで叫んだ。
「ほんっとうに、すみません!!」
一縷が深く腰を折って言った。言われた男は彼に背を向けた形のままで笑って「別に気にしてはいないよ」と言葉を紡ぐ。校長、と書かれたネームプレートが、やけに重厚な空気を醸し出す机の上に鎮座していた。異様に空気が重い。
「威勢がいいのは結構じゃないか」
そしてそのまま、男は言葉を続ける。
「それに今は、大人しく昼食を食べているんだろう?」
――その頃全ての教室では、生徒及び職員に食事を支給する、給食と呼ばれる時間に突入していた。勿論それは、学級崩壊寸前にまで荒れ切った五年四組も変わりない。今日のメニュー、カレーライスとサラダ、そして林檎が綺羅を含む全員の前へ並べられる。
「りんご……」
いままで異様に暗かった綺羅の顔が、ぱぁぁぁっと明るくなった。彼はひよこせんべいと同じくらいに林檎が好きなのだ。先ほどまでとは天と地の差があるその表情に夏希はフォークをくわえながら、
(あいつ、りんごで初めて笑いやがった……)
と思う。しかしすぐに「関係ないな、関係ない」と考え直した。冬希に触ろうとしたことを、彼女はまだ許していないからだ。お姫様だっこなんかしやがって、と恨み言を巡らせながら夏希がしゃくっとフォークに突き刺した林檎をかじった、その途端。
「!?」
げほげほと噎せ返りながら冬希が血を吐きだした。喉が焼けるような熱に似た痛みと、腹の底がなくなってしまったような錯覚と闘いながら口から流れる血を止めようと手を当てるも、それはどんどんと指の間から溢れ出てくる。
それを見た夏希は硬直し、綺羅は荒っぽく立ち上がった。悲鳴に近い声が教室を埋め尽くす中で、明らかな異常と人使いの荒さから彼は旧救護班長の名を呼ぶ。
「八千縷だ!! 八千縷呼ばねぇと――」
叫びながら振り向いた教室の戸、そこに、
「お呼びかしら? 綺羅兄」
ウェーブのかかった黒髪を揺らす、八千縷がいた。状況を説明しようとする彼を彼女は人差し指を唇にやることで黙らせると、
「私が毒気に気づいていないとでもお思いでしょーか?」
自信ありげに笑う。
彼女の手腕をよくよく知っている――何せ、隊長の特権を使って毎日のように呼びつけていたのだ――彼は、道を譲った。自分が出る幕ではないのだから。
「再生(リセット)!!!」
崩れ落ちた冬希に向かって翳された八千縷の両手から溢れた淡い光が刹那にも満たないひどく短い時間彼女を包み、消え失せる。
「…………あれ?」
全身を苛んでいた苦痛が全て消え、冬希はぺたりと床に手を押し付けた。力は入るし、吐き気もしない。もと通りだった。
目の前で起きた不可思議には理解できなかったがとにかく「治った」ということを察した夏希はうっすらと涙すら浮かべて彼女に駆け寄ろうとする。
しかし、聞いてしまった。
「失敗……したな」
隣に立つ少女の冷徹な声を。
「――――ッ!!!」
お前が、やったのかと。
完全に頭に血が上った夏希はその激情のまま少女を教室の壁にたたきつけるようにして押し付け、
「お前がやったのか!? お前が……っ!!」
右手を握りしめ、後ろへと引き絞る。
バキッ、と、
鈍い音が痛いほど静かだった教室に響いた。夏希は遠慮も容赦も欠片のなかった全力の拳が止められたことに驚く。
彼女の拳を止めたのは、正にそれを受けようとしていた少女ではなく、その少女を庇うように両手を広げて立つ冬希、でもなく。
「ったく、これが女を殴る強さかよ……」
冬希を守るように出された、綺羅の左手だった。めちゃくちゃだぜ、と赤く腫れた指先を舐める彼を見た夏希は、怒りをぶちまけられなかった悔しさと、何より冬希に手を上げかけていたという恐怖に駆られ、
「う……あぁ…………」
小さく嗚咽を漏らし、
「うあぁぁあぁぁあ!!!」
泣き崩れた。
その、放課後。誰もいない教室で、冬希は床に散る自分の血を拭き取っていた。
「夏希ちゃん、私のために怒ってくれたのに……」
彼女の脳裏に甦るのは、激昂した親友の表情と自分を庇う綺羅の背。
「仙堂も私を庇って――」
きゅう、と目を閉じた彼女は、涙をこらえて呟いた。
「強く、なりたいなぁ」
その背後で、上履きが音を立てたのも知らずに。
夏希が目を覚ましてまず見えたのは、白くて見慣れない天井だった。少なくとも教室のそれは薄く黄色みがかっている。次に、きつい消毒液の匂いが彼女の鼻をついた。それだけで、彼女にはここがどこだかわかる。
(保健室、か?)
この健康体の私が? と考えて、思い出す。
(ああ、私、倒れたんだっけ……)
記憶が途切れる前のことを思い出して、夏希は軽い頭痛を覚えた。あんなに泣き叫んだのは久しぶりだ、と頭に手をやりながら曖昧な記憶を手探る。
と、
「よう、起きたか?」
かけられた声に視線だけを動かした。見えたのは、黒い着流しに身を包んだ綺羅。
「お前、何だよその格好……」
手には冷たく研がれた一振りの刀、
「何だよその刀……」
身にまとうのはただただ覚悟の色のみ。
「何だよ、お前……」
綺羅は向けられた一般人の感覚としては至極真っ当なそれらの問いには全く答えず、「あー……そーだ」とひどくどうでもよさそうに口を開いた。
「お前も一緒に来い」
何が、と夏希が問う前に彼は言う。
「お前の親友を助けに行くぞ」
ギシッ、ギシィッ。
真新しい金属が無理歪められたような音が、「くすのき」と平仮名で書かれた名札を付ける少女の体から響いていた。鉄に覆われた伸縮可能な彼女の手が、異常なほどに伸ばされた彼女の手が、捕らえた冬希の細い首を掴み、ぎりぎりとぎちぎちと締め上げる。少女の手首から肘までは可動部を中心に切り離され人の形を保っておらず、その間を補うように太いパイプが張られていた。見れば見るほど異様、あり得ない光景である。
その少女、露出された少女の首もとのスピーカーから、
「苦シイカ?」
と、ノイズ交じりの音が放たれる。喉を潰さんばかりの力で握られているため答えることができない冬希に少女は嗤いかけ、
「終ワリニシテヤル」
と、死刑宣告たる音を紡ぎだした。
途端に少女の手に人間としての規格外の力がこめられ、
「ッあ!」
冬希は小さな悲鳴とともに血を吐く。それでも握る手は緩められない。もう少しで彼女の首の骨がへし折れる、その前に、
少女の腕の体裁を辛うじて保っていたパイプが、
甲高い音をたてて切り裂かれた。
支えを失った冬希は、力なく崩れ落ちる。そして少女のパイプを切り裂いた何か、鋭く鈍く光る手裏剣が、
「ッたくよぉ」
と呆れ声の彼の手中に収められた。その背に冬希を庇いながら。疾駆のためか僅かに風を身に纏った彼は、澄んだ翠の瞳をキッと眇めて言い放つ。
「こいつの何がそんなに気に入らないんだ?」
仙堂君、と、冬希がほとんど吐息だけの声で彼の名を呼んだ。ヤヤコシクナルネェ、と少女の喉から返ってきた音には、どうしようもない明らかな喜びが乗せられている。そして彼女は自身の腕を形作っていたパイプの塊を掴み、引き抜いた。束ねられたそれらは刀よりはやや小さい小太刀へと化し、
「ッ」
神速、およそ人間には達しえないスピードで振りぬいた。その斬撃を恐るべき条件反射でかわした綺羅に少女は、
「失敗……」
と、やはり愉しそうに音を立てる。まるで無邪気な子供のように。彼女は一旦小太刀を引くと刹那と間を置かずに綺羅の背後へ回り、寸分違わず首を狙って振り下ろす。その余りの速さとそつのなさに舌打ちした彼は刀の刃を横からあててそれを防ぎ、横ではなく後ろへと受け流し、「マタ失敗……」などと狂ったように嗤う少女の後ろをとり、
「アリャ?」
その無防備な後頭部へと刀を突き刺した。ズブリ、と絡みつくような嫌な音をたて、何の抵抗もなくそれは少女を貫く。
「――――――ッ」
ひと思いに頭を真一文字に斬り捨てた綺羅は、
「まだ死んだわけじゃねぇんだろ? 早く立てよ」
と膝をついた、頭の上半分がない少女へと向かって言った。しかし彼女は全くの無音、身じろぎ一つしない。
あ? と不思議に思った綺羅は(まさか体の一部を削ぎ落とされた程度で作動を停止するほど低機能ではないだろう、という彼のロボットへの勝手な偏見によるものだ)、ついつい、とやはり動かない少女の脚を突っついてみた。死んでいるんだろうかと思案するが、やはり彼の持つ偏見と、そしてこれまでの経験によって育てられた直観は死んでいないと判断している。
彼は間違っていなかった。
彼女の突かれているその脚、床と接している部分からズルリと何かが抜け落ち、彼女の影を通じて床を移動する。綺羅はソレに気づかない。ソレは彼の真後ろでピタリと停止、床から半固体の液状に盛り上がり、雑把な人型を作り上げた。それが、小太刀を大きく振りかぶる。
「っ!」
一瞬の殺気を感じ取った綺羅は飛び退るが、半固体の液体に包まれた小太刀が彼の額を抉り、決して浅くはない傷を作った。だらりと流れる血に、彼は左手で傷口を押える。埃っぽい教室の床に、新たな血痕が出来上がった。
致命傷ではないものの動きが制限される傷を負ったにもかかわらず、綺羅はその口元に笑みを乗せる。
「見誤ったな、液体ロボット」
小太刀をその体の内に抱える液体は反撃のために自身を更に精巧な人型へと成形し始める。
「人間の急所は、心臓(ココ)だぜ」
綺羅は自分の胸を親指で小突くと、
「お前の急所はそこ(頭)かもしれねぇけどな」
勝利を確信した笑みで人で言う「頭部」になりつつある液体に突きを入れた。刀から伝わる手応えはほとんどない。なにせ液体なのだから。
ゴパッ、と底の方から泡が浮き上がったような音とともに刀の突き刺さった部分から血が吹き出し、綺羅の頬に散る。
「へぇ、一応血も入ってんだ……、けど」
その血は、異様なまでに黒ずんだものだった。
「あまり新鮮じゃあないな」
綺羅は出来た黒い血だまりの中に膝をつく。ガシャン、と力の入らなくなった手から滑り落ちた刀が虚しく音を立てた時、
「死んだ人間素にして作られてんだからなぁ……」
液体は、瞬間にして女の死体へと変わり果てていた。腐敗はしていない。恐らく液状に「根本から作りかえられていた」のだから、死体としての経過時間が未だ腐敗するに達していなかった、それだけなのだろう。しかしただの死体がこうして液体状となり、機械の中に詰め込まれて動く――それも殺人行為に及ぶことなど、常識的にもあり得ないことだ。つまりどこかに、この死体になんらかの仕掛けをして冬希を狙った、黒幕がいるということ。
ギリ、と綺羅は歯噛みした。教室の床に染み込んでゆくどす黒い血に、そして死体を先兵として使う黒幕たる輩に。
と、怒りや悲しみをない交ぜにした感情に沈む彼の耳に、
「綺羅――――――――!!!」
と、シリアスもぶち壊しな大声が届いた。驚いて声のした後方へ振り向くと、真新しいスーツを身に纏った男らしい人影(綺羅との距離が大分以上にあるので、はっきりと視認が出来ない)が走って来るのが見えた。
まだロボットがいたのかと舌打ちをした綺羅が唐突に現れた新手に向かい上段に刀を構えると、その人影はタンッと軽やかな動作で廊下を蹴り、
「と……跳んだ!?」
天井すれすれまで跳び上がる(それは入り口部分の梁なども計算された見事な放物線だった)。人影はそのまま空中でドロップキックの体勢を取って、
「ぐふおっ」
その揃えられた両足が狙い違わず綺羅の顔面にめり込んだ。ばたり、と大の字で後ろに倒れこんだ彼は、蹴り飛ばした側の人影に怒鳴られる。
「俺は敵じゃねぇ!」
一縷だった。綺羅は血まみれの――その中には今の一縷の一撃のものも含まれる――顔を一縷に向け、「顔の傷これ以上増やすなよ」と、むぅと唸った。右半分をどす黒い血で、左半分を鮮血で汚した彼の顔をまじまじと見やった一縷は、涙すら浮かべる勢いで盛大に笑う。
「顔だけ一方的にやられてる! しかも右半分返り血で左半分自分の血だっ!!」
腹を抱えてけたけたと笑い続ける一縷に、綺羅はこめかみに青筋を浮き上がらせて「黙れよ」と短く反抗した。その声にそこまでからかう気はなかったのか、一縷は真面目な表情で本題に入る。
「この女の人は女の子型のロボットに入ってたんだ?」
綺羅は頬にべったりとついた血を拭いながら肯定した。今のところはそれしか分かっていない。あとで八千縷に治してもらおう、と思ったより早く血の止まった額の傷に触れながら呟く。
これで全てが終わったと思い込んでいる彼らは、再び液体へと化していく女の体の変化にも、そこから響いたひどく冷たい電子音にも気付かない。