其処は神の揺り籠には程遠い場所。
其処で地獄を見た少年たちは「愛」という強い絆で結ばれ、
「自由」という誘惑に解き放たれる。
朝。何羽かの小鳥が囀り風に若葉が揺れるその中で、小学校教師と言うにはあまりにもズレた、とても派手で露出度の高い――いくら若いからとは言え、普通髪を染めばっちりと化粧をした上にノースリーブのパーカーとショートパンツという上下の組み合わせは教師として考えられないだろう――格好をした教師、桃知忍は、自分を追い越していくカラフルなランドセルを背負った生徒たち一人一人に「おはよう」と明るく声をかけていく。これも立派な情操教育の一つだ。坂道を登っていく最中、ヘアピンで前髪をとめた少女がにっこりと笑って彼女を追い越す。
「おはようございます」
「おはよう。朝から元気だねぇ」
明るい日差し降り注ぐこの時間のとても気持ちいい挨拶に忍も笑って応え、そして振り返りながら言う。
「それに比べて、そのいかにも嫌そうな顔は何?」
彼女の後ろには、
「小学校……」「チビいっぱい……」「制服ダサっ」
等とどんより曇った顔で呟く綺羅、薺、八千縷がいた。今日は転校初日である。この辺りでは見かけない顔の上に、特に双子の兄弟は髪や瞳――綺羅の場合は長髪、薺の場合は目の周りの黒い布もだが――からかなり、というよりもとても目立つ。家族のために今日も今日とて通勤途中の中年や我が子以上に可愛くなってきた花の水やりに勤しむ主婦に白い眼で見られるのは御免なのだが、忍の職業が職業なので、彼ら三人を邪険にも出来ない。もっとも彼女の性格上、子供を邪険にするなど一生出来ないのだろうが。
「オレこっちだ。じゃーな」
校門に着いた所で、綺羅は声低く言った。ああ、と答える弟の声にも覇気はない。かなりテンションが低い。それでももうクラスや学校の構造は分かっているのか、綺羅も薺も八千縷も迷うことなく校舎の中へ消えていく。
ヘンな子たち、と忍は知らず呟いた。
靴を履き替えて階段を上り、「五年四組 担当:桃知忍」と丁寧な字で書かれたプレートを確認して、綺羅は五年四組の教室の扉を開ける。そこには、小学校舎らしからぬ光景が広がっていた。
まず教室の中央に陣取るサングラスをかけた少年たちは前髪を高くし、横の髪をキツめのワックスで後方に撫でつける――
(リーゼント?)
そのすぐ後ろ、友達だろう隣の少年の肩を悪乗りして叩く男子が咥えているのは葉を発酵させた嗜好品――
(たばこ?)
こちらから一番遠い窓際で談笑している女子が着ているのは極彩色の、少なくとも八千縷が着ていたものとは似ても似つかない――
(私服?)
そしてその女子が握っているのは今世界で最も薄いという触れ込みの最新機種の、無線を用いた小型電話機――
(携帯?)
その明らかに間違った教室に軽いパニックに陥った綺羅は、
ドン、とまるで憂さ晴らしのように校門の柱へ拳を打ち付けた。戻ってきたの? と忍が訊く。彼女が綺羅たちと別れてまだ数分と経っていない。彼は教室のあの光景を見てすぐにこの場所まで駆け降りてきたのだ。同い年の姿を受け入れきれなくて。
ずーん、と座り込んでいつキノコ類が生えてきても可笑しくない程ショックを受けていた綺羅は、ふと、唐突に顔を上げて言う。
「……登校拒否って、どんな気分だろう」
その顔には、ひどく真面目な色が乗せられていて。はい? と聞き返す忍をよそに、彼は真剣な面持ちのままで言葉を続ける。
「"僕もうこのクラスでやっていける自信ありません!!"とか先生に言って、自分の家に引きこもるのだろうか」
「!?」
すっくと勢いよく立ちあがった綺羅は、びしっと敬礼しながら、
「じゃ先生!! さようなら!!」
と爽やかに踵を返して帰ろうとする。待ちなさい、と教師として転校初日の無断欠席を許すわけにはいかない忍は止めようとして、
「……冬希?」
目の端で捉えたある光景に硬直した。綺羅も呆然とする彼女の視線の先へ目をやって動きを止める。彼らが見たものは、
赤い赤いランドセルを背負った少女とノンブレーキで彼女に迫る二トントラック。
「冬希っ!!」
呼ばれた少女――冬希はは、腹の底に響くような轟音と共に全身に襲いかかってきた強い衝撃にぎゅっと目をつぶった。ぱたぱたと無機質なアスファルトに鮮血が滴り落ちる。衝撃はあれど痛みがないのを不思議に思ったか、冬希はうっすらと瞼を押し上げる。
ほとんど吐息がかかりそうなほどの距離に、銀髪碧眼の少年、綺羅の顔があった。助けられたんだろうことに、ついでに所謂「お姫様だっこ」をされていることに気付いた彼女は、顔を赤らめながらも礼を言おうとして、
「きゃっ」
ぺいっ、と綺羅に投げ捨てられた。あまり高さのない場所からのそれなので痛みはなかったのだが。
「いってぇな……あれ、絶対ぇスピード違反してんぞ?」
と言いながら見やった綺羅の足にはトラックのどこかにぶつけたのか大きな擦り傷が出来ている。ひどく赤くて痛々しいそれからは、じわりじわりと血が流れていて。後で八千縷に診てもらわねぇとな、等と呟きながら、彼はふと冬希に視線を移した。そして言う。
「腰、悪いのか?」
「違います!!」
ぺたりと冷たい地面に座り込んでいる彼女は、涙を浮かべながら叫んだ。綺羅はくすりと笑うと、「腰抜かしてんのか」と言って彼女に手を差し出す。掴まれと。邪気も屈託も裏もないその笑顔に冬希が絆創膏の貼ってある頬を染め、小声で今度こそと礼を言いながら彼の手を取ろうとして。
「冬希に触んじゃねぇ」
横合いから入ってきた声と足が綺羅の顔面に直撃した。
「!!!?」
蹴られた彼は口の端から血を流しながらアスファルトの上に倒れる。彼の顔に靴裏の跡をつけた少女に気づいた冬希は、ぱあっと花のほころぶように笑顔になった。
「夏希ちゃん!!」
夏希と呼ばれた少女はニカッと太陽のように明るく笑って口を開く。
「痴漢追い払ってやったぞ」
「うん、ありがとう!」
とりあえず冬希はこの友達の優しさに礼を言って、「でもね」と中途半端に上げたままだった手で綺羅を指さす。
「そこの人、一応私の命の恩人なんだけど……」
指を差された綺羅は、倒れたままの体勢で片手を上げて「どうも、青春やってますね」と言った。
「ほんっっとにごめんっ!!」
ぱんっ、と小気味いい音を立てて手を合せ、夏希が盛大に謝った。蹴り飛ばしたことらしい、これで片手の指の数を超えた。最初こそ「別にいいって」などと笑って返していた綺羅は、「だからもう良いって言ってるだろ!?」と鬱陶しそうに声を張り上げる。私が嫌なの!! と負けじと叫んだ彼女と、「そんなこと知るか!!」と叫び返す綺羅は、教室へ続く廊下ではひどく目立っていた。片方が見慣れない、それも不思議な色を宿した少年なのだから、尚更に。ぎゃあぎゃあと騒ぐ彼ら二人の後ろから、
(でも結局ちゃんと教室入ってくれるのよね)
一部始終を見ていた忍が出席簿を抱えながら、
(元気だなぁ……)
頬に貼られた絆創膏にさすさすと指先をやる冬希伏し目がちについてきていた。二人の目的地も、前を騒がしく歩く二人と同じなのだが。冬希は小さくため息をついた。周りの喧騒に溶かすように。夏希はそれを見ていたが、彼女はそれに気づかない。
目の下にばっちりと濃くてはっきりした隈を作った教師はやつれた顔で、それでも笑顔で、
「それじゃあ転校生二人を紹介します」
と、お決まりの言葉を言ったところで。
「嫌だって言ってるだろ!!?」
転校生のためにと開けられていた教室の扉から少年の叫び声が差し込んできた。教師を含むその教室にいた全員が、びくぅ、と肩を震わせる。今は授業の前の朝のホームルームの――もちろん小学生なのでホームルームとは言わず、生徒たちは「朝の会」などと呼び習わしているが――時間で、廊下には生徒なんていないはずだ。教師もまた、自分の担当のクラスにいることだろう。この廊下にいることができるのは、転校生、くらいで。
「レディーファースト――――――」
「だって――――」
その声は言葉を重ねるごとに近づき大きくなっていき、
「言ってるで――」
そして止めとばかり、
「しょっ!!」
ドンっ、と殴りつけるような蹴りつけるような音がした。ひどく鈍いその音は、殴りつけられたか蹴りつけられたか、少なくともその被害者のダメージの大きさを想像させるに十分なものだ。例えるなら、そう。ボクシングの世界チャンピオンが本気でサンドバッグを殴った時のような。
「いっ!!?」
開けられていた扉から、天然で色素の薄い髪を散らした薺が倒れこむ。顔面から着地などという無様なことはしなかったが、赤く腫らした頬は彼に何があったのかを言葉以上の何かで伝えていた。可哀想に、と、初対面の転校生のために教室の一同が心を一つにする。何よりも彼らは薺を憐れんでいた。転校初日からひどく悲惨な目に遭っている。
そんな、周りから一斉に憐憫の眼差しを浴びせられているとは知らない薺は倒れこんだ体勢のまま、いつの間にか後ろに立っていた八千縷を見上げる。チョコレート色に見えなくもない僅かに色素の薄い髪の隙間から、銀色のピアスが見えた。
「男に飛び蹴り喰らわすレディがいるのか!?」
「いるのよ!! ここに!!」
くわっと口を開き彼が吠えると、八千縷がすぐさま斬り捨てる。
「レディーファーストなら女が先だろっ」
「女を守るっていう意味で男が先なのよっ」
「そんなの聞いたことない!」
「何で男がそんなことも知らないのよっ」
「普通知るかよそんなこと!!」
二人は完全に周りが見えていなかった。少なくとも転校初日だからと大人しくするつもりも配慮するつもりも一切ないようだ。教室の、それも教卓の横という非常に目に付く場所で――更に言うのなら教室の扉はずっと開けっ放しなので、きっと飛び蹴りの件もこの言い争いも隣や向いの教室に聞こえてしまっているだろう――ぎゃあぎゃあと騒ぐ転校生二人に、教室にいた者はみな一様にどうしたものかと動揺し始める。
すると、
「はい、そこまで!」
その他大勢など眼中にないなどという風に言い争う二人の頭に手がおかれ、彼らのよくよく聞き知った声が降ってきた。
「あ――――!!」
見上げた八千縷は瞠目して叫び、声だけでわかった薺は年齢不相応に小さく舌打ちする。
声の主は一縷だった。身に纏っている水に濡れたように黒い髪によく似合う下ろしたてだろう糊のきいたスーツは実年齢を鑑みればまだまだ早いような気がするが、そこは人当たりの良さや背の高さでカバーしていた。まだ「いかにも新人です」というぎこちなさは抜けていないものの、それもすぐに消えてしまう類のものだ。
「妹たちがご迷惑をおかけしました」
一縷はぺこ、と頭を下げた。下げられた教師は困ったような顔で生返事をする。
そんな明らかに見違えた彼の手をぺしりと払った薺が――どうやらチビ扱いが気に入らなかったらしい――彼を見上げて不機嫌そうに問うた。
「何で一縷が学校に来てんだ?」
ここに雇ってもらったんだ、と笑う一縷に、薺は「じゃあ、一つだけ言っておく」と前置いて口を開く。
「敬語がかなり気色悪い」
「同感」
彼の言葉に妹ですらも間髪入れずに同意した。ショックからか絶句する一縷に、教師を始め同情をすら込められた視線が向けられる。
払われた手が、とても虚しく宙を泳いでいた。