序章 粁

 ぐらぐらと揺れる中で眠っていた八千縷は何かを感じ、瞼を押し上げる。
「八千縷」
 彼女が視線を移すと、安堵の表情の一縷が見えた。痛む体をおして状態を起こした彼女は、心配そうな表情で兄に言う。
「一兄、この殺気……」
 一縷は、八千縷を安心させるように笑って、言った。
「うん、隊長のだ」



「うわぁぁぁ!!?」
 男二人の叫びと共に、血飛沫の柱が立つ。ほんの一刹那で十近くいた閉埜の取り巻きは殺されていた。
 異変に気付いた彼が、
「あ? どうしたんだ、お前――」
 ら、とまで言いかけて、
 ドッ、と、
 綺羅の刀が紫電一閃、彼の首を切り裂いた。深く大きな傷口から噴出す紅い血とは全く不似合いな色の綺羅の長い髪が、疾走の余韻で揺れている。
「せんど……っ、た、い……ちょ…………う……」
 血を吐く閉埜の言葉にも綺羅はあくまでも無表情。
「そ、ん……な」
 途切れ途切れに言葉を紡ぐ彼の全身が裂け、後ろに倒れながら土へと崩れていった。人一人分の質量がありそうな土くれの山だけが、後に残される。
 それを確認した綺羅は返り血に濡れた頬など気にも留めず、
「さて、と」
 と冷静に、前置くように言うと、持っていた刀と飾りのついた刀とを持ち替える。
「後はこれだけ、か……」
 言った途端にじわりと滲んできた涙に小さく悪態をつくと唇を噛み締めた。
(まだ、生きていたいだなんて)
 そんなことを心の底で願っていた自分に彼は小さく毒づく。
 この刀は元より、絶大な力を発揮する代わりに使用者の命を奪う、というものだ。当然昔からの言い伝えのようなもので綺羅自身半信半疑だったが、それでも、信じてみる価値はあると――
(オレは、皆を救わなきゃいけないんだ)
 彼の隊長としての気構えが、

 己を殺すことを命じた。

(動け、動け、動け……!!!)
 祈るように綺羅が念じて、その手が、ゆっくりと刀の飾りへと伸びる。
 そして、飾りが取り払われた。
 途端、刀の柄以外の全ての部分が肥大する。分厚い刃と長い刀身にしかし、それは不思議と重く感じなかった。
 綺羅は確信する。
(これなら、壊せる)
 見た目の大きさ以上の力の大きさに、
(天皇島を……壊せる!!!)
 彼は目的の完遂を知った。
 そして全てを終わらせるために刀を振り上げ、渾身の力で……振り下ろした。



 巨大な力の顕現を肌で感じて、
 薺が、八千縷が、一縷が、空を仰ぎ見る。
 その空は、哀しいほどに黒かった。



 霞むような微かな意識の中、綺羅は海の底へと沈んでゆく。巨大な刀によって裂きくだかれた大地の割れ目へと落ちたのだ。助かろうなどとは思わない。助けられるなどとは思わない。しかし彼は海面へと、地上へと手を伸ばしていた。まるで、救いでも求めるように。
(あぁ……)
 綺羅は自分の手を見やり、ゆっくりと瞳を閉じる。
(愛惜しく伸びる腕もまた、幽かな希望であることが悔しい……)
 その腕は指先から崩れ、頭上にたゆたう海水を濁していた。意識を手放そうとする彼の脳裏に、彼の幼い頃の記憶が甦る。
 八千縷や一縷との出会い、父と看取った母の死。

 バシャッ、と海面から綺羅の方へと手が伸びる。

 鮮烈に焼きついた父の死に様、薺に手渡された父の形見、共に生きようと言われ、自分は、手を――――。
(……ごめん、薺)
 無意識下で、綺羅は思考を零す。薄く開いた翠の瞳が最後に映したモノは、
(なず、な……?)

 崩れ果てて腕とも呼べないその腕を掴もうとする、弟の姿。
 綺羅は再び瞳を閉じると、幸せそうに、満足そうに、微笑った。



 ぱたりぱたりと上った陸に海水を滴らせながら、薺は「兄貴、ウソ、……だろ?」と笑って呟く。彼の手は、兄の服すら掴めなかった。
「バカだな、お前」
 薺はげほげほと噎せる。今更に海水が目に沁みてきた。
「形見はまだ……俺が持ってるぜ…………?」
 死なないんじゃねぇのかよ、と。言葉と涙を零し、濡れた帯を握り締める。知らず口の端から嗚咽が漏れた。その彼の背後、抱えていた妹をそっと地面に降ろした一縷は、
「薺?」
 震える彼の背に声をかける。そこから聞こえる嗚咽を聞いた八千縷の思考は、最悪の結果へと帰結した。自分の体を支えてくれている兄の着流しの裾をぎゅっと掴む。
 綺羅が死んだ。
 そんなことは認められない。世界が壊れたって認めない。
(でも、実際に、俺、は)
 薺は、見た。崩れて海に溶け消えた兄を。まるで病にかかっていたかのように土に変わって、海だけに自分がいた跡を遺して、結局触れることの出来なかった、兄を。
 彼は、死んだのだ。
「――――っ!!! うわぁぁああぁあぁぁぁ!!!!」
 薺の慟哭が、中途から避けた天皇島に響いた。
 哀悼の色を乗せた壮絶な彼のそれに、八千縷も耐え切れずに涙を流して一縷に抱きつく。そんな悲しみで澱んだ空気の中、七彩に染まったたくさんの炎が現れた。それらはゆらゆらとゆらめきながら海面へと進み、水音を立てながら海へと沈んでいく。
 炎の姿をしたそれらは、海水に浸かっても消えなかった。



(生きてんのか、オレ……)
 こぽこぽと水の泡立つ音を聞きながら、綺羅はうっすらと瞳をこじ開ける。
(何だ……? こいつら)
 視界の端の人影を認めた綺羅は、視線だけを動かした。控えめに見ても十、否二十を超えるその人々の中で、彼は見知った姿を見つける。黒い布切れで翠の瞳の周りを覆い白い帯で銀糸の髪を束ねた、綺羅や薺にとてもよく似た男――――死んだはずの兄弟の父、犀羅だ。
 父さん、と紡ごうとした綺羅の唇は動かない。
「こっちに来たいか?」
 父の問いかけが聴覚を通さず脳内に直接響くような感覚。反響してぼやけたその不思議な感覚に戸惑う綺羅の体、その胸の辺りから山吹色の炎が抜け出した。それは意思を持っているかのように犀羅の広げた掌の上へ移動する。ちろりと揺れる炎は、ひどく頼りなかった。
「来たいのなら、連れて行ってやる」
 綺羅は、父の手の中にある自身の魂であろう炎を見て、父からの問いかけを受けて、心臓が大きく跳ねるのを感じた。そして、音にならないとわかっていながらも、彼は声を紡ぎ合わせる。

「オレは、生きたい――――」



 ピシリ、と亀裂が広がって、悲壮に沈む三人の足許にまでそれは広がった。低い地鳴りも轟き、ぐらぐらと大地が揺れる。それらは、天皇島壊滅の予兆だった。
(綺羅兄の体……どうしよう……)
 波の寄せて返す陸と海の淵で、綺羅の亡骸を引き上げたい、しかしそうすれば自分たちも沈んでしまう、と八千縷が苦慮していると、

「早くしねぇと死ぬぞ、お前ら」

 彼女らの背後から、その彼の声が響く。三人の呼吸が一瞬止まった。これは夢なのではないかと。しかし、地を蹴る仕草も、その時かけられた「行くぞ」と言う声も、揺れる長い銀の髪も、全て全て綺羅のもの。
 帰ってきた。彼が、自分たちの場所に。三人は泣きながら、けれど笑顔でその後を追った。
 四人の疾駆で作られた風が、刀につけられていた飾りを揺らす。そしてその風に乗せられて、海の方へとひらひら舞った。



「う……うーん? 兄貴ぃ」
 もっと遠くを見ようと目を細める薺の声に、綺羅は舵を取りながら小さく声を返した。甲板から、更に薺が言う。
「何にも見えねぇぞ」
「当たり前だ!! どんだけ距離あんと思ってんだよ!!?」
「どんだけあんだ?」
「知らねーよ、それをお前がそこで見つけんだろ?」
 あっそーか、と納得したらしい彼に「全く……」と綺羅はため息をつく。その視界の端に、見えた気がした。天皇島があった場所に。十字架を模した墓と海面に突き刺さった大きな刀、そして色とりどりの炎を。
 自分が何故今ここで生きているのか分からない。確かに自分は、確かに、死んだはず、だというのに。
 生きている。
 血を吸った刀を振り回して戦地を駆け抜けた後、それでも感じ得なかったそれへの喜びが、冷たい風を頬を感じて、手に硬い舵の感触を得て、何より弟と戯れの会話を交わして、ひどく暖かく胸の内に広がる。
 理由なんて知らなくていい。きっとこれは、父がくれた時間。
「兄貴ー? おぅーい、あーにきぃー」
 硬直した兄を不審に思ったか薺が首を傾げる。はっ、と正気に戻った綺羅は、今の自分を誤魔化すように弁解を試みた。
「うるせえ! 「ひよこせんべい」買い置きするの忘れたなって考えてただけだよ!」
 今考えていたわけじゃあないが、「ひよこせんべい」の残りが少ないことを憂えていたことも事実、嘘じゃない。彼は「ひよこせんべい」の虜だった。
 すると薺は、くつくつと笑って言う。
「あー、兄貴好きだったもんな、アレ。あんなのどこが美味いワケ?」
「バカヤロウ、「ひよこせんべい」の薄味の絶妙さを舐めるなよっ」
 茶化すつもりの言葉に返ってきた意外に真剣な兄の声音に薺は「あ、そう」と呆れたように言って、訊く。
「ところで、あと何粁(キロメートル)?」
「さぁ……あと百粁くらいじゃね?」
 綺羅は笑って応えながら、くるりと一回転、舵を回した。