うつらうつらと舟を漕いでいた綺羅は、突如現れた三つの気配に瞼を押し上げる。
その瞬間を目撃した薺たち三人は、
「は? 部下呼んどいて寝てた訳」「最低」「全く……」
とそれぞれに文句を言った。しかし、それらを上回る低く不機嫌そうな声が彼らの許に届く。
「どういうことですか? 隊長」
そう進言したのは左の頬に十字の傷跡を刻んだ青年――花鹿蜜葉(かのかみつは)。くすんだ赤い髪の向こうに覗く枯葉色の瞳が、疑心と反発の色を明らかに示していた。どうやら薺たちがこの集会室へやって来るまでに彼ら他の班長には用件をすでに伝えていたらしい、彼も、彼の後ろに立つドレッドの男――石動紀伊(いするぎきい)も同じような目をしていた。見れば他の班長たちも、一様に。
たくさんの非難の声と視線――それも十、二十、果ては更に年嵩のものまで――を受けて、綺羅は言葉に詰まる。
説明の仕様がない。
さっき言ったことが今日話すことの全てで、これ以上のものがないのだ。
だが今来たばかりで何の説明も受けていない薺たちは首を傾げる。綺羅は幼いながらも隊員たちの支持を受けている、一体何を話せばこんな険悪な空気になるのかと。
そんな彼らに綺羅の背後、
「……なーんか、さぁ」
開け放してあった窓の桟に腰掛けていた青年が、ふと言葉を投げる。
「俺が聞いた話では、伝染病で人がいっぱい死んだから、島を沈めてどっか行こうって話さ」
蜜葉によく似た――とは言っても、十字の傷はないが――彼、"住人護衛隊第参班"班長の鷺原閉埜(さぎはらとざの)は「まぁ俺は反対だけどね」と桟から飛び降りながらも言葉を続けた。
(ヤな大人……)
その飄々とした態度に綺羅は思ったが、口には出さない。
一介の班長――班長という地位は誇るべきであるが、比べる対象が隊長である綺羅のため、どうしてもそれが霞んでしまう――とは言え、相手は綺羅よりもずっと年上であるのだ。
亀の甲より年の功、というのは違うだろうが、やはり年上は敬い立てるべきだろう。
「伝染病の感染者は五十一名、その内去人は四十八名です」
どうやら自分の領分でもあると気付いた八千縷が、ぎすぎすした空気の中に声を放り込んだ。聞き捨てならない単語を拾い上げた蜜葉が、「それじゃあ……!!」と驚きを露にする。これは、やばいと。
「全人口の五分の一が死んだということか!!?」
重苦しい空気の中、薺が切り出す。
「協力すんのはオレと八千縷の班だけで、反抗宣言が一班……意外だった?」
反抗宣言を出したのは、閉埜の班。ああ、また殺さなければ、と顎に手をやった綺羅は目を細めた。
「いや……そこまでは予想済みだ」
弟が短い髪を揺らして「じゃあ一縷のことか?」と首を傾げると、兄は「まぁな」と短く応えて思考を巡らせる。
さっきの会議でのことだ。
"な……っ、兄貴に協力しないって言うのか一縷!!?"
"ああ。残念だけど、俺は力添えできない"
"何でだめなんだよっ!!"
"とにかく俺は船にいる。それが、一番の得策らしいから"
"?"
綺羅には、一縷の付け加えた「らしいから」という言葉が引っかかっていた。
(まるで、誰かにそれを教えてもらったみたいな言い方だった)
「あいつがいないとなると、大分予定が狂う」
綿密だった計画を彼は一瞬で崩し、再び組み立て直す。
誰が抜けても誰が欠けても現状に変わりはない。ともあれ、これは戦なのだから。
綺羅は顎にやった手を下ろさないまま、薺に「それより、ちょっと伏せろ」と呟くように言った。言われた彼は疑問符を浮かべながらも大人しくそれに従う。すると綺羅は顎にやっていた手を前に出して、
振り下ろされた二振りの刀を人差し指で受け止めた。
向こうの力を削ぎながらも力をかけるという人間離れした技をやってのけた彼は、その手とは逆の右手で刀を抜き、どこからか刀を振り下ろしてきた男二人の体を切り裂く。綺羅は吹き上がる血飛沫を全て避けるように身を引いた。途端、
「!?」
男たちの体が崩れ土人形へと化す。残されたのは大量の血と土と、「第参班」と刺繍された着流しだけ。
綺羅は小さく唇を噛み、拳をきつく握り締めた。
発病・死亡の原因は島の内部、奥深くにある有害物質。
実行は、今夜だ。
『首尾はどうだ?』
通信機のスピーカー越しに届く綺羅の声に八千縷は、
「住人の避難は終わりました」
刀を片手に答える。
『……そうか。引き続き頼む』
「はい……!』
彼女の周囲には紅く華が咲いていた。
ふと兄を見やった薺は、常とは違う彼の姿に「兄貴っ!!?」と叫ぶ。
あ? と大したことのないような綺羅の返事に薺は必死な風体で言った。
「父さんの形見を勝手に取るなよ!!」
綺羅の手には銀の髪を束ねていた白く細い帯が握られている。この帯と、薺の顔につけている黒い布は二人の父、仙堂犀羅(さいら)の遺した形見だった。
そんな弟の姿に綺羅は目を細め「これは死なないための覚悟だ」と言って、大して背の変わらないその頭を撫でてやる。
彼が少しでも悲しまないように。少しでも笑っていられるように。
「これを外しているときは死なないんだ。だろ?」
それは父が去り隊長として刀をとった頃からの約束。
綺羅のその言葉を受けて、薺は小さく笑った。
ふぅ、ととりあえず一仕事を終えて息をついた八千縷の背後で、男が不敵な笑みを浮かべる。
「!?」
殺気にも似た気配に気付いた彼女が振り向くと、
「良い夢を、幼い班長さん」
という言葉と共にその体が貫かれた。男の手に握られた刀によって。
「貴方、は……ッ!!?」
刀を引き抜かれた八千縷は支えを失い糸の切れた操り人形のように倒れる。左胸、心臓のある位置を的確に突き刺したその一撃を致命傷と判断したか、男は去って行った。当然だ、普通心臓を一突きすれば人間は死ぬ。だが、彼女は生きていた。
(伝えないと……)
彼女は通信機を取り出し、散りかける意識を必死につなぎとめながらボタンを押す。
(伝えないと……)
心の中で思い描くのは、自分を刺した"第参班"班長である閉埜の姿。
(綺羅に……に、早、く、伝え……)
ピッという電子音と共に通信が繋がる。スピーカーの奥から綺羅の彼女の名を呼ぶ声が届く。
(な、い……と…………)
しかし八千縷の体は動いてくれなかった。彼女の作る血溜りが通信機の許まで広がる。
「おっ……かしいなぁ…………」
ツ――、と無機質に吐き出される電子音にも聞き飽きて通信機から耳を離した綺羅は、首を傾げる。
ほんの少し前、彼は八千縷からの電波を受信した。が、音声は無く無言、どころかものの数秒で切れてしまったのだ。
「確かにさっきかかって……」
と綺羅が呟いたところで、手の中のそれが震えだす。着信の合図だ。八千縷だろうか、と思い通話ボタンを押すと、
『隊長――――――――!!?』
と鼓膜を突き破るほどの大声量が届いた。思わず肩が跳ねる。
「い、一縷?」
何だお前、協力しないんじゃなかったのか? と綺羅が訊くと、『それがっ』とかなり切羽詰った声が返ってきた。大人しく、聞く。
『胸刺された八千縷が船に運ばれてきて――……』
ぴたり、と綺羅の表情が固まった。呼吸すらも止まる。そんな兄を不審に思った薺が声をかけようとすると、綺羅は短く弟の名前を呼んだ。いつもの兄でない、隊長としてのその声に薺は思わず背筋を伸ばす。
「倉庫に取りに行かせた刀貸せ。それと一縷」
未だ通信の繋がったままの一縷に短く、
「全部終わらせるからそこで待ってろ」
と言い捨てて綺羅は通信を切った。通信機を持っていないほうの手には既に刀が握られている。通信機をしまった彼は、薺から受け取った飾りのついた刀を薙ぎ、払い、振り下ろし、その手にしっかりと馴染ませた。
そして、口を開く。
「薺、伝言頼む」
はっ、と、俯いていた薺は顔を上げて兄を見やる。綺羅は、銀糸の長髪をなびかせて薺に背を向けていた。
「八千縷に、怪我なんかに負けんな、って。あと、」
一縷に、と言いながら彼は薺の方を振り返る。
「生きてこの島出れたら、また昔みたいに"一兄"って呼んでもいいかって」
その時彼の湛えていた笑みは、とても脆く、とても無理をしているように見えた。その消えてしまいそうな笑みを見た薺は、二メートルほどあった彼との距離を一気に縮め、
「なっ、何すんだ薺!!?」
全力で斬りかかった。綺羅は条件反射、二振りの刀でそれを防ぐ。
さっき自分が渡した刀を握る兄の手に自分の手を重ねた薺はぽろぽろと涙を零しながら、
「そんな伝言なら頼まれねぇ!!! たった一人の肉親を、誰が手放すかよ……ッ!!!」
訴えるように、心を叩きつけるように言葉を紡ぐ。
「ちゃんと生きてこの島を出ようって言えよ!! これ外してるときは死なないんだろ……!!?」
白い帯を握る彼の手が、かたかたと震えていた。それを見た綺羅は一瞬躊躇するも、キッ、と瞳に力を籠め、
「――――ああ」
とだけ言うと、ダンッと地を蹴り走り出した。
薺は兄だからといって手加減していたつもりはない。しかしあっさりと行かせてしまった。綺羅の放つ威圧に動けなかったのだ。
薺は地面に膝をつき、自嘲気味に笑う。
「……相変わらず凄ぇな…………殺気って言うの?」