序章 粁

 その日の午後。隊員の剣術稽古の時間だ。
 綺羅は左右から挟みこむように距離を縮めてくる大人二人――当然のように綺羅よりも随分背が高い――の姿をしっかりと目で捉えながら、
「開始」
 と低く小さく呟いた。
 その声を合図に、大人二人は竹刀を構え一気に間合いを詰める。
 竹刀すら持っていない綺羅はしかし特に焦る様子もなく二人を見やり、
(……ふむ)
 と考える。
 一直線に向かってくる二人の軌道上、その到達点にいる彼が一歩でも前後に動けばどうなるか。
「わぁぁっ!!?」
 同士討ちである。二人の構えた竹刀は見事なまでに互いの体を打った。
 渾身――綺羅の方が明らかに強いため、こうならざるを得ない――の一撃を互いに食らった二人は、痛みに顔をしかめ道場の畳の上に膝をつく。綺羅の右手から攻めてきた女は、打ち所が悪かったのか側頭部から僅かに血を流していた。
「……終了だ」
 綺羅は短く言うと二人に指導を始める
「まずはお前。構えが悪い。それじゃあ隙だらけだ」
「は、はいっ」
 血を流す女はそれを受けてキリっと表情を硬くし、
「次、お前。体に余計な力が入りすぎている」
「はい!!!」
 もう一人の男は気合を入れて答えた。
 的確なその言葉と毅然としたその姿は年端もいかない少年ではなく上に立つべき強者そのものだった。
 この二人で最後だな、と立ち上がった彼らに大事がないか確認すると、綺羅はそのまま稽古場から出ようと踵を返す。その刹那、
「ひ……っ、きゃぁぁぁぁッ!!!」
 女の悲鳴が彼の鼓膜を激しく叩き、振り返ったその頬に鮮血が散った。体中を傷だらけにして血まみれた女が、ゆっくりと綺羅の方へと傾ぐ。
 思わず綺羅は傍へ寄ってその体を支えた。すると支えた傍から彼女の手が顔が崩れ、土くれへと変わってゆく。

"……症状としては、少しでも傷を負うと全身の皮膚が裂け、体が土へと変わっていく病です"

 父の死因を聞かされた時の巫女の言葉が綺羅の脳裏を掠める。
「何だこれはっ……!!?」「き、救護班を呼べぇッ!!」「止血だ、止血しろっ」
 周囲で口々に叫ばれる中、彼は呆然と涙を流した。それは頬についた返り血と混ざり、さながら血の涙のようで。
(父さん……オレは、どういたらいいんですか?)
 崩れていく彼女の体に、自分は何もしてやることが出来ない。どれだけ強くなろうとも、父を亡くしたあの時と全く同じ。
 気がつけば、彼女を支えていた右腕には土が積もっていた。
(……これは、返り血だ)
 土色に染まった着流しの裾をぼんやりと見つめて、綺羅は静かに涙する。
「班長、こっちです!!」
 と呼ばれて稽古場へと入った八千縷が見たのは、そんな彼だった。
「もう手遅れかもね」
 彼の姿から悲しみなんて言葉では尽くせないものを感じ取った彼女は、「そんな……っ」と今にも泣き出しそうな班員の男に「そっちじゃないわ」と否定の言葉を投げる。
「手遅れなのは……隊長の方」



 その頃、薺は。
 あちらこちらに蜘蛛の巣の張られている、いわゆる倉庫と呼ばれる建物の中にいた。彼が歩を進めるたびギシギシと木板の軋む音が響く。
「古ー……ってゆーか、もしかして俺兄貴に騙された? どこにもねーじゃん」
 乱雑に置かれた埃まみれの物の中には貴重な古文書なども埋もれているのだが、いかんせんと薺はそういったものには全く興味がない。
 そもそも、何故彼がこんなところにいるのか。それは、巫女に連れられる綺羅と別れる時のこと。
"――――、刀?"
"そう、刀。多分あの古い倉庫にあるはずだ"
"応……でも、何に使うんだよ?"
"――――内緒だ"
 薺は兄に刀を取りに行けと命じられた。その時は軽い気持ちで引き受けたが、
(すっげぇ物の数……ったく、相変わらず人使いが荒いんだから…………)
 ずらりと並ぶ骨董品の数々を見ると少し気が滅入ってしまう。
(そう言えば、指先を切っただけでも救護班長の八千纏を呼びつけてたっけな)
「覚えてろよーチクショー」
 今ここにはいない兄に悪態をついていると、
 ガシャン、と、
 何か硬い物を踏みつけた。足袋の裏からでもわかるその感触は、一振りの刀。
「痛い……けど、見つけた」
 薺は屈み、刀の鞘に手をかける。その刀は他のものと変わりないように見えた。特筆すべきといえば、鍔につけられた飾りぐらいだろうか。
「これが兄貴の言ってた……」
 と立ち上がりかけたその背後でギシィと木が鳴いて、
「!」
 凄まじい速度で飛んできた短剣を、
「く、っ!?」
 薺は手にしていた刀を抜いて受け止めた。強度負けしたか、短剣の先が欠ける。その欠片が薺の手を掠り、小さな傷を作った。
 彼は持っていた刀から傷ついた手を離すと、
「……誰だよ」
 自身の口許へと持っていき、ぺろりと舐める。口の中に広がるのは、、酷く冷たい鉄の味。
「人の野生本能動かした奴は」
 瞬間、薺の纏う空気が変わった。見るもの全てに恐怖を煽るような、そんな殺気に。
彼は抜き身の刀を構え直すと、タンと一跳び、
「!?」
 逃げようとしていた男の前へと降り立つ。
 そして刀を振り上げ一閃、



「!」
 書類を片付けようとしていた――未来系、つまり未だ手をつけていない――彼、一縷は、冷たい何かを感じて立ち上がった。
 傍らで机に乗り切らなかった書類を抱え待機している――全くといっていいほどに仕事をしない一縷の場合、"監視している"の方が正しいのかもしれない――彼の部下が「副隊長、早く仕事やってください」と叩き込まれた敬語も忘れて急かす。だが一縷は、
「今、殺気が……」
 と言うと刀も差さずに戸の方へ歩き出す。
「ちょっと出てくる。続きは頼む」
 と言い置いて。言われた彼の部下は「えっ!?」と素っ頓狂な声を上げて机のほうを見やる。
(続きって……あんた何もやってないじゃん)
 そこにある書類は、一枚たりとも仕上がっていなかった。
 つまり一縷は、デスクワークが嫌いなのである。



 パキリ、と足袋の下で枝の折れる音が鳴った。
「明るくなったら逆に埃で見えねぇ」
 煙幕みてぇだ、と埃舞い立つ中で呟きながら、薺は目の前の倉庫だったものを見やる。
 ほんの数分前までは倉庫としての役割を果たしていたそれは、薺の一方的な斬撃のとばっちりを受け無残にも屋根や壁、柱が吹き飛んでしまっていた。
 勿論それを悪いなどとは思ってもいない――むしろ「正当防衛だ」と主張するだろう――彼は、事切れたと思われる男の体を置いて踵を返す。
 その時、ピクリと男の指が動くのを視界の端で捉えた薺は小さく嗤って、
「お前、死ぬフリ下手」
 倒れていた男を掴み上げ首筋に刀の切っ先を当てた。
 そして一瞬後ろへと引き絞って、薺は文字通り死刑宣告を紡ぐ。
「せめて、死ね」

 ドッ、と突き破るような音と共に、鮮血が溢れ出した。

「薺」
 男を庇うように出された一縷の掌から。
「……一、縷」
 驚いた薺は彼の掌を直角に貫通した刀を引き抜く。ずるり、と嫌な音がした。庇い広げられた一縷の掌には見事に風穴が開いている。当然だが、酷く痛む。
 しかし一縷は痛みに顔をしかめることなくもう一度薺の名を呼ぶ。
「仮にも"住人護衛隊"が住人殺してどうする。この人はただの倉庫の管理人だぞ」
 まぁここに来たことがないお前なら知らなくて当然だろうけど、と咎めるような一縷の背後では、男がふるふると震えていた。
 下段に刀を構えた八千縷が駆けつけたのは、その時。
 何でここに、と言いたげな兄に「綺羅兄からの通達」と答えた彼女は、薺たちが戦闘体勢に入っていないのを確認すると、構えた刀を鞘に収める。
「副隊長及び各班長は、至急集会室に集まるようにと……」
 憂え顔の彼女の言葉に、薺はピクリと半ミリ眉を動かして、
「兄貴が? 珍しいな……」
 と言う。ただの隊員どころか班長一人にもこんなことが出来る権限はない。出来るのは巫女と、隊長である綺羅だけだ。だが綺羅はもともと無駄なことはなるべくしないので、定例以外の会議は必要最低限、よっぽどでない限り開かれない。
 む、と考える彼をよそに八千縷は兄に声をかけた。一縷がその声にひかれ顔を上げると、
「再生(リセット)!!」
 八千縷は彼の掌へと両手を翳して叫んだ。刹那の時間その掌が淡い光に包まれ、
「腕、上げたなぁ……」
 一縷が掌を自身の眼前に持ってきたときには跡形もなく完治していた。すげぇ、と彼が呟くと八千縷は「当然」と胸を張る。
 傷口を一瞬でふさいだあの光は、八千縷が幼くして"救護班"班長の地位を有する最大の所以、俗に言う超能力と呼ばれる類の力によるものだ。この力により彼女は、軽い外部破壊のダメージならば一瞬で治すことが出来る。
 もちろんその正体についてはわかっていない。周りにいる誰もが、「こういうものだ」と曖昧な認識で済ませているからだ。
「あぁ、綺羅兄が呼んでるんだった。もう行かなきゃ」
「だな」
 そう言い合って――その一拍後、彼ら三人の姿はなくなっていた。
「き、消えた……!?」
 残されたのは、薺に殺されかけ、一縷に助けられた男だけ。