序章 粁

 其処は神の揺り籠には程遠い場所。
 川の在るべき場所に血が流れ、人をも溶かしてゆく。
 其処には"天皇島"という檻があった。



「綺羅兄綺羅兄っ!!」
 ばたばたばたと騒々しい足音と高い少女の声が純和風の造りの屋敷に響く。
 その根源である少女は、ある一室の引き戸を勢いよく開きながら大きく叫んだ。
「綺羅兄――ッ!!?」
 スパーン、と小気味良い音を立てて開いた戸と共に、中にいた少年が「ん?」と振り返る。腰までの銀の髪を白い帯で纏め、やや着崩した白い羽織姿のその少年は、右手に「ひよこせんべい」と焼印された素朴な木箱を持ち、口にはその中身であろうせんべいをくわえていた。もそもそとその口が動いて、せんべいの砕ける乾いた音が響く。
 彼は弱冠十一歳にしてこの天皇島の住民をあらゆる危険から守る"天皇島住人護衛隊"の隊長という肩書きを持つ少年、仙堂綺羅。彼の纏う白い羽織は、その証でもあった。
 綺羅のその何でもない平和的な様子に、戸を開けた少女は「えいっ」と彼の顔面を殴る。掛け声は可愛らしいが、ゴッ、などと鈍い音がしたあたり痛みや衝撃は洒落にならない。
 彼は唐突な衝撃と痛みに呻き、手から木箱が、口からせんべいが落ちる。哀れ、落ちたせんべいは全て割れてしまっていた。
 そのその惨状を目の当たりにした彼は、
「なっ、何すんだ……」
 よ、とまで言い掛けて、少女に羽織の下、黒い着流しの胸元を肌蹴られる。小柄なその体には、袈裟斬りにされた傷跡があった。
 傷は一応塞がっているもののそれは腫れ、手当てが十分に為されていないことが窺える。
 バツが悪そうに綺羅が視線を泳がせた。その中でちらり、と少女の方を見やると、
「何で教えてくれなかったの……?」
 彼女は大きな瞳に涙を浮かべている。
「ご、ごめん……」
 ほとんど条件反射で綺羅が謝ると、少女はぱっと笑顔を浮かべ「なーんてねっ」と言った。見ればもう涙は引いている。
 嵌められた、と気づいた彼が反論しかけるが、
「ケド、一応診とくから脱いでね」
 という言葉に頷くしかなかった。彼女も綺羅と同じく"天皇島護衛隊 救護班"の班長の肩書きを持っているからだ。
 その道のプロが診てくれるというのだから、ここは大人しく従うべきだろう。
 彼女の名は癸八千縷(みずのとやちる)。小動物と嘘をこよなく愛する――後者は素直でない、という言い方も出来る。良く言えば、の話だが――十一歳の少女である。
 傷口の具合を診て貰っていた彼は、ふと気付き問うた。
「そういやぁ、この頃一縷(いちる)が来ねぇんだけど?」
 すると八千縷はたちまち機嫌を悪くして「一兄なんて知らないっ」とそっぽを向く。

「……ふぅ」
 壁の陰に隠れていた少年はこっそりとため息をついた。気付かれないように、小さな彼らを見つめる。
そして彼は、

「また喧嘩か?」
「喧嘩じゃないもん絶交だもん」
「ああそう」

 ぷりぷりと頬を膨らませる八千縷と話す綺羅に向けて手裏剣を飛ばす。それは狙い違わず綺羅の許へ届き、
「ッ」
  日に焼けた畳に鮮血が散った。
しかしそれは綺羅のものではない。飛んできた手裏剣は彼の指に挟まれ停止している。
 ならば誰の血か。それは、
「一縷……」
 部屋の中に半身だけ体を入れた、八千纏と同じ黒髪の少年の血だ。
「お前、馬鹿?」
 頭からどくどくと血を流しやはり黒い着流しをそれに浸す彼に「どうやったのソレ」と綺羅が呟く。
 因み、この一縷と呼ばれた少年の怪我の原因は「綺羅と八千縷をよく見ようとして壁に頭をぶつけたから」であるが、もちろん彼ら二人はそれを知らない。
 明らかに可笑しい怪我の仕方に妹、八千縷は「綺羅兄っ!! あいつの苗字変えてくださいっ」と半分泣きながら綺羅に言った。どうやら家族であることすら恥らしい。
 その無茶苦茶な要求に彼も「じゃあ死人(シド)で」などと答え、帳簿のようなものに書き込んでいく。
「最高ですね」
 八千縷は即答した。半分着流しを脱いだ状態の綺羅は、「この際名前も変えちゃう?」と動きづらい中でも器用に帳簿をめくっていく。
 倒れ血溜りを作っていた一縷はこの二人の会話を聞いて「あーあ、すごい嫌われ様」と呟きながら立ち上がった。未だ額からは血が流れ続けている。
「俺そんなつもりないのに」
 この八千縷の兄である一縷は"天皇島住人護衛隊"の副隊長という肩書きを持っているが、そんな大仰な肩書きもこの二人の前では紙屑同然のようだ。二人と五つ差とは到底思えないようなあしらわれ方である。
「あ、隊長。何か巫女さんが呼んでるよ」
 ぼたぼたと流れる血を止めようともせず(掃除をするのは綺羅ではなく他の隊員である)、一縷は年下の隊長に言った。
「へー……何だろう?」
「大事な話があるんだってさ」
   首を傾げる綺羅に、続けて言う一縷。綺羅兄ちゃんと服着て行きなよぉ、と八千縷が笑った。
「オレ、あの人嫌い……」
 巫女とは天皇島における唯一の武力を持たない権力者で、"天皇島住人護衛隊"の隊長の推薦や戸籍管理など広い分野での仕事をこなしている。よく仕事が出来て綺羅もとても助かっているのだが、いかんせんと馬が合わない。  肌蹴た服をなおしながら(ついでにおざなりだった髪も纏めなおしながら)、彼女に訴えるように言う彼だったが、「ワガママさん」などと彼女はかわすばかり。震えながら「ついてきて下サイ」と懇願すると、兄妹に口を揃えて同時に拒否される。
(何でこういう時は息が合うんだよ……)
 と彼は心中で呟きながら、にこにこと笑う二人に背を向けた。



 さくさくと生えている若葉を踏みしめながら綺羅が中庭を歩いていると、その眼前に、
「あ――、面倒くせぇ」
 と上下逆様の少年が現れた。綺羅にとてもよく似ているが、髪も目も色素が薄く、その長さも首にかかる程度。そして一番の違いは目の周りを覆う黒い布切れだ。ちゃんと目の位置はくり貫かれており、覗く瞳は気だるげに細められていた。
「何がだバカヤロウ」
 と言いながら綺羅は彼の後頭部を叩く。すると少年は受身を取る暇もなく地面に叩きつけられた。どうやら綺羅の傍にある木からぶら下がっていたらしく、頭上の枝は大きく揺れていた。
 何してたんだコイツ、と思いながら、
「そうか、お前も馬鹿か」
 と地に転がり痛みに悶絶している少年に綺羅が言い放つ。それを聞いた彼は頭上の枝を掴んだ。
「だー、れー、がぁー」
「お?」
 少年は勢いよく起き上がる。髪に葉や小枝を絡めながら。
「馬鹿だって? 兄貴」
 それらを全く気にせず(もしかしたら気付いていないのかもしれない)、綺羅の双子の弟薺は兄を睨み付けた。彼は八千纏と同じ権威を誇る"天皇島住人護衛隊巫女護衛班"の班長を務めている。
「邪魔だ、オレは巫女に用があって来た」
 自分と瓜二つの弟の言葉をさらりと無視し、綺羅は薺の前を通り過ぎる。巫女という言葉に顔をしかめた薺は尻尾のようになびいている彼の髪を掴み、そのまま後ろに引っ張った。
「ッ、どわぁっ!!?」
 バランスを崩された綺羅は見事なまでに仰向けに倒れる。
 薺は兄を見下ろすと、ぺろっと舌を出し「べーっ、どっちが馬鹿だよ」と笑った。その意地の悪い笑みに「何すんだよ」と上体を起こした綺羅が牙をむいたところで、
「おやめなさい」
 と二人に冷水を浴びせるような言葉が飛んできた。
 よく聞き知った声を聞いた二人は同時に声のした方を振り返る。
「巫女さま……っ!?」
 そこには綺羅や薺等と同じ黒の、しかし裾が彼等のものよりも異常に長い着流しに身を包んだ女がいた。
 巫女、と呼ばれたその女は一瞬だけ薺に目をやる。
「!」
 目が合った薺は顔を赤らめ、それを誤魔化すように口を開いた。
「ちゃ、ちゃんと寝ていないと風邪ひき――」
「黙りなさい」
 その(薺的には精一杯の気を遣った)言葉を彼女は一言の下斬って捨て、「仙堂隊長」と呼んで綺羅の方へと視線を移す。
「すみません……」
 と薺が更に顔を朱に染めるのを横目で見やりながら綺羅は、
 こういうところが嫌いだ、と悪態をついた。
 そんな彼の心境など知らないだろう巫女は、深刻そうな表情で彼に言う。
「事は重大です」



 広い屋敷を右へ左へ、中庭から数分歩いた先の一室の襖に巫女が手をかける。
 その部屋の中には、
「ウソ……、だろ?」
 一様に着流し姿のヒトガタのモノが寝かせられていた。例式として左手を胸に、顔には白い布をかけてあるが、袖や裾から覗く手足は朽ち果てた木のように、或いは水気を帯びた紙切れのように、ぼろぼろに崩れ土くれへと化している。
 二十近いその中には、綺羅や薺、八千纏と同じ背丈のモノもあった。
「そん、な……ッ」
 通常ならば決して有り得ない死に方。
 それをまざまざと見せ付けられた綺羅は、
(隊長と言っても、まだ十を過ぎたばかりの子供……)
 息を乱し体を震わせながらもソレを静止し続けていた。
(それでも目を逸らさないのは己の責任感の強さから……?)
 巫女は彼のそんな様を見やり、小さく思う。
(だからこそ、隊長であり続けられるのでしょうね)
 感嘆にも似たそれを彼女は押し隠し、「去人は計十六人」と報告を始める。
「その内二人は戦死。他十四人は――同じ症状の病死です」
「!」
 病死。その言葉を聞いて綺羅は、ある情景を思い出していた。
「ご察しの通り」
 今でもはっきり憶えている、
「あなたの父と全く同じ死因です」

 それは父の死に様。

 彼の父親は、優秀な戦士でありながら病死した。
 血溜りに倒れている父、土くれへと変わっていく体、何かを求めるように伸ばされた、手。
「そう、か……」
 視線を伏せた綺羅の言葉に巫女は、提案する。
「私は、この島を後にすることをお勧めします」